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池田城(池田城跡公園)、 [お城]

7月14日(木)   先日、地元の池田城跡公園へ行ってきました。今回は「池田城」の歴史を中心にアップします。(撮影は6月24日)

★池田城跡公園
住所:大阪府池田市城山町3-46
電話:072-753-2767
営業時間:9時~19時(冬季17時)。休園日:火曜日
料金:無料。 駐車場:なし。 ペット入園禁止
オープン:2000年4月。 面積:15,600㎡

◎池田城
https://kojodan.jp/castle/441/
縄張形態 :平山城(丘城)。 標高:50m
築城主: 池田教依。 築城開始:1334年(建武元年)頃。 廃城年 :1580年(天正8年)
主な改修者: 池田勝正。 主な城主:池田氏、池田勝正、荒木村重
遺構 :堀、井戸、土塁。 復元状況: 櫓台および大手門(模擬復元)

【沿革】(Wikiより)
池田城は室町時代から戦国時代にかけて、豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市周辺)を治めていた国人領主・池田氏の居城だった。
池田城の拡張
 築城当初は、主郭部分(本丸に相当する部分)と小さな曲輪が取り付けた小規模な城であった。主郭の中には、枯山水風の庭園が築かれており、戦闘防御施設の中に文化施設が設けられ、この時代から城は生活の場所でもあったとうかがわせる。その後、池田城は何度か落城をしており、その都度防御機能や縄張りを強化していく。
 池田城が最初に落城したのは、応仁の乱で東軍について、文明元年(1469年)に西軍の大内政弘の軍に攻められた時である。この時はすぐに奪回したので被害も少なく大規模な改修はなかったと思われる。
 次いで永正の錯乱に端を発した細川氏の内紛で細川澄元派に属していた池田貞正は、永正5年(1508年)に反対勢力であった細川高国の攻撃を受けて落城、貞正は自殺して子の信正は逃亡した。発掘調査で炭層、焼土が厚く堆積していることが確認されており、池田城は被害をうけたと見受けられている。その後、享禄4年(1531年)の大物崩れでも高国の攻撃を受け、この戦いの後に城の復興で主郭の堀を広げ周りに土塁を設け、南側にも連郭状の曲輪を設け防御陣地を広げていった。天文2年(1533年)、享禄・天文の乱で2月に一向一揆に敗れて堺から淡路へ逃れていた細川晴元が4月にこの城に入城、畿内へ戻った。
 永禄11年(1568年)、池田勝正は織田信長に抵抗したが織田軍の攻撃を受け落城した。しかし勝正は抵抗したお咎めを受けなかった上に逆に評価され、信長から6万石を賜って家臣となった。池田城は信長の持つ「虎口」などの城郭の技術を取り入れてより拡張した。池田城の虎口は城内に二度曲げ、それ以外に東側に横堀を二条掘削し、大規模な曲輪を設け城域を拡張した。
 勝正は信長に摂津三守護の1人に任命され、金ヶ崎の退き口では殿を務めるなど活躍したが、三好三人衆についた一族の池田知正や荒木村重に池田城から追放された。

荒木村重の台頭
 荒木村重は重臣「池田21人衆」の1人として頭角を現し、池田勝正を追放した池田氏内部のクーデターで城内をまとめ、残る摂津三守護の和田惟政、伊丹親興を討ち取って茨木城と高槻城を手中に収め、元亀4年(1573年)3月29日に足利義昭と対立した信長と京都知恩院で対面し信長に忠誠を誓う。この時信長は高槻城攻略に激賞し、村重に摂津の単独守護職を認めた。池田知正は義昭に就いたため没落、池田家を乗っ取った村重の家臣になった(下克上)。摂津は南北朝時代以降分郡支配体制だったが、村重より一国一大名体制になった。
 その後伊丹城を手に入れた村重は有岡城と改名し、居城を有岡城に移した。池田城の城主は知正になったという話もある。
 天正6年(1578年)に村重は石山合戦の最中に石山本願寺に内通しているという噂が流れ、信長も噂が大きくなるにつれ、真意を探るべく自分の前で申し開きをするように命じた。当初村重は母親を人質に入れ、申し開きをすることを承諾したが、明智光秀や羽柴秀吉などの説得も受け入れず信長のいる安土城には出仕しなかった。ここに至り謀反を明確にした村重は本拠地に有岡城を定め、高槻城、茨木城、尼崎城(近世尼崎城でなく大物城でないかと思われる)、花隈城に兵を配置し織田軍の進攻に備えた。こうして有岡城の戦いが始まる。村重は池田城に軍を配置しておらず、池田城の池田氏は村重に対して協力的でなかった可能性がある。
 これに対して信長は11月9日に出陣、高槻城、茨木城を無血開城に成功、同年11月27日に「古池田」、池田城に織田軍は陣を張った。その後有岡城の四方を囲み始め12月8日に攻撃を開始する。まず鉄砲隊が一斉射撃し弓隊の火矢でかく乱し、酉の刻有岡城に突入を開始したが、攻め切ることが出来ず、逆に多くの家臣を失うことになる。
 信長は戦術を持久戦に変更、周りに兵を配置しつつ12月11日に池田城に陣を戻し、12月25日に自身は安土城に戻っていた。その後、信長は安土城から池田城、池田城から京都など、池田城に陣を構えたまま各所に出かけ、持久戦の効果が出るのを待ち続けた。村重は翌年9月2日の深夜、家来5、6名をつれて尼崎城へ移り、毛利氏に援軍を要請しに出向いたと思われる。信長はこの時を好機ととらえ再び攻撃を命じ、天正7年(1579年)11月に有岡城は落城した。生き残った妻子や家来は尼崎七松で刑にかけられ命を落とした。村重はその後生き残り、秀吉の茶人となったと言われている。池田知正も妻子を尼崎七松で処刑されたが秀吉の家臣になった。

廃城
 荒木村重の謀反から始まった戦で池田城は村重に捨てられ信長側が利用した。当時の城主が誰だったかはわからない。ある資料には「天正の間に時の城主、池田三左衛門輝國は攝津尼崎城主荒木攝津守と不和を生じついに戦になり、三左衛門は戦死した」とある。荒木攝津守は村重の縁者とされる。池田城は有岡城が落城した翌天正8年(1580年)、信長の命により廃城となった。池田城にいたとされる池田氏もどうなったかはわからない。
 『信長公記』によると「古池田に至って御陣を居させられ」とある。建武元年(1334年)前後に建築されたのだから天正8年であれば245年ほども経っていたことになり古い城であったといえる。

↓公園入口(東側)
池田城1.jpg

↓公園案内図
池田城2.jpg

↓東門(大手門)
池田城3・東門.jpg
池田城4.jpg

↓北門
池田城5・北門.jpg

↓西門
池田城6・西門.jpg

↓南門
池田城7・南門.jpg

↓虎口門
池田城8・虎口.jpg

↓管理棟(売店と休憩所)
池田城9・管理棟.jpg

↓売店の様子
池田城10・売店.jpg

↓季節限定の白百合の「御城印」
池田城11・御城印.jpg

↓小規模な花菖蒲園
池田城12・菖蒲園.jpg

↓満開の白百合
池田城13・白百合.jpg
池田城14.jpg
池田城15.jpg
↑平成12年3月、池田白ゆり会が約2,000株のテッポユリを寄贈。初夏の風物詩になっています。

以下は、遺構などを紹介します。

↓排水溝
池田城16・排水溝.jpg

↓土塁
池田城17・土塁.jpg

↓枯山水
池田城18・枯山水.jpg

↓礎石
池田城19・礎石.jpg

↓井戸
池田城20・井戸.jpg

【過去の池田城跡公園のブログ記事】
2011年6月13日掲載:池田城跡公園
2015年11月4日掲載:第26回文化探訪ラリー
2018年11月9日掲載:第29回文化探訪ラリー
2020年11月12日掲載:第31回文化探訪ラリー
2021年11月10日掲載:第32回文化探訪ラリー
2022年4月21日掲載:五月山公園へ

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◎阪神 今季最多の19安打13得点でG粉砕 中野が4安打 西勇は8回零封の快投
https://www.daily.co.jp/tigers/2022/07/13/0015467208.shtml
 阪神が今季最多の19安打、13得点の猛攻。投打で巨人を圧倒し、完封負けを喫した前日のリベンジを果たした。
 初回、1死二塁から近本の中前適時打で先制すると、右足コンディション不良から1軍復帰となったマルテの右前適時打で2点目。糸原の投ゴロ併殺崩れの間にも加点し、この回3点を挙げた。
 二回にも1死二、三塁から敵失に乗じて加点。佐藤輝の右犠飛、マルテの2打席連続適時打となる左前打でこの回も3点を奪った。
 三回にも2死二塁から中野が左前適時打を放ち、リードを広げた。六、七回には暴投と遊ゴロ適時失策で加点し、八回には植田の今季初安打となる左前適時打などで4点をダメ押しした。
 先発の西勇は両コーナーを丁寧に突く持ち前の投球で、8回を4安打無失点。今季6勝目を挙げた。
 快勝した一方で、復帰したばかりのマルテは五回の守備から退いた。直前の四回2死の第3打席では遊ゴロを放った際に全力疾走できず、守備でも足が動かないシーンがあった。

タイガース24.jpg
【打点】近本1,マルテ2,糸原1,佐藤1,中野1,山本1,植田1,坂本2
【マルチ安打】中野4,近本3,マルテ2,糸原2,山本4 【盗塁】島田(2)、近本(2)
【マルチ三振】島田2,西勇2 【失策】マルテ(3)、山本(5)
タイガース25.jpg
↓ヒーローの西投手、中野選手、近本選手
タイガース23.jpg

※阪神タイガースも半沢直樹になりました。「やられたら、やり返す。倍返しだ!」

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