今のかたち~西日本の民藝(万博公園・大阪日本民芸館)、藤井聡太五冠叡王初防衛 [歴史館・博物館]
5月26日(木) 万博記念公園内にある大阪日本民芸館へ行って来ましたので紹介します。
◎春季特別展「今のかたち~西日本の民藝~」
春季特別展 大阪日本民芸館開館50周年記念
期間:2022年3月5日~7月18日
会場:大阪府吹田市千里万博公園10-5 大阪日本民芸館
入館料:710円
https://www.sonoligo.com/events/5639
https://www.mingeikan-osaka.or.jp/2022/02/14/%E3%80%8E%E4%BB%8A%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%80%E2%80%95%E8%A5%BF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B0%91%E8%97%9D%E2%80%95%E3%80%8F/
【大阪日本民芸館について】
大阪日本民芸館は、千里万博公園の文化ゾーンの中に位置しており、日本庭園、国立民族学博物館に隣接しています。1970年3月から9月にかけて開催された日本万国博覧会において、関西財界企業有志と東京・駒場の「日本民藝館」が出展したパビリオンが元になっています。パビリオン「日本民藝館」では、「暮らしの美」をテーマに、江戸期の古民藝、当時の産地の手仕事、個人作家の新作品が展示されました。
万博終了後、財団法人大阪日本民芸館(2012年4月より公益財団法人へ移行)が設立され、柳宗悦(ヤナギムネヨシ)(1889-1961)が提唱した民藝運動の西の拠点、大阪日本民芸館として1972年に開館しました。陶磁器・染織品・木漆工品・編組品など、国内外から作品を収集し、展示公開を行ってきました。現在は、年2回(春季・秋季)の特別展を開催しています。
【民藝とはなにか】
民藝とは、民衆的工芸の略で柳らが作った造語です。彼らは、無名の職人によってつくられた日用雑器に驚くべき美を発見しました。
柳の新しい美の発見はまず朝鮮から始まり、日本の各地方にまで広がりました。当時、柳が発見した品々は、美的価値を認められておらず、「下手物」や「雑器」と呼ばれていました。そこで柳は、これに変わる新しい呼び名として「民衆的工藝」、略して「民藝」という呼び名を創造します。
民藝という新しい美を世の中に紹介した柳の活動には、陶芸家の濱田庄司(1894-1978)、河井寛次郎(1890-1966)、バーナード・リーチ(1887-1979)、芹沢銈介(1895-1984)、棟方志功(1903-75)といった個人作家達も加わっており、民藝を糧としてそれぞれに優れた作品を生み出しました。
民藝の特製について、柳は著書「工藝の道」の中で、「実用性」、「無銘性」、「多量性と廉価性」、「地方性」、「協業性」を挙げています。つまり、特定の個人が作ったものではなく、それぞれの地方の暮らしぶりに応じた実用性を、何世代にもわたる職人と使い手が追求してきた結果、自然と生み出された造形を指すものとしています。
さらに、柳は仏教思想の研究にも力を入れ、民藝との関連にも言及しています。沖縄や北海道をはじめとした地方の手仕事にも目を向け、様々な生活文化の中に美を発見し紹介しました。
★今のかたちー西日本の民藝ー(第1~4展示室・特別展)
大阪日本民芸館では、春季特別展大阪日本民芸館開設50周年記念「今のかたちー西日本の民藝ー」を開催いたします。
大阪千里丘陵で開催されたアジア初の国際博覧会であるEXPO’70に、関西財界有志と東京・駒場の日本民藝館は「暮らしの美」というテーマを掲げて、パビリオン「日本民藝館」を出展しました。そして大阪日本民芸館は、EXPO’70終了後の1972年、建物と作品の一部を引き継ぎ、「西日本の民藝運動の拠点」として大阪日本民芸館が開館し、今年で50周年の節目を迎えます。
本展では、これを記念して関西から沖縄までの西日本で活躍する現役の作り手達を中心に、約100名の作品を全館通して一堂にご覧いただきます。思想家の柳宗悦らが創始した民藝運動は、彼らが見出した美の紹介を主軸に、民藝館という常設展示施設の開館や、民藝協会といったコミュニティの設立、あるいは各地の手仕事の復興や支援など多彩な活動を行ってきました。その中でも、初期から意欲的に取り組まれていたのが、時代に即した新作を生み出し、それらを生活に結ぶことでした。こうした民藝運動には、柳自らが牽引していた当時から陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチ、染色家の芹沢銈介、板画家の棟方志功など分野が異なる多くの作り手が参加し、担い手として活躍してきました。
現在でも、民藝運動にはたくさんの作り手が関わっています。彼らは様々な立場、世代、地域性や制作の分野といった異なる状況の中で、それぞれに民藝と向き合いながら優れた作品、品物を生み出しています。
民藝という言葉のもとに集まった作り手達による「今のかたち」、その多様性や魅力を250点以上の作品を通してご紹介します。第一展示室では関西から山陰山陽・四国エリアの作品を、第二展示室では九州・沖縄エリアの作品を、そして最後の第三・四展示室では大型の染織作品をご覧いただきます。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、自由な移動や交流が不自由になってしまった今だからこそ、西日本各地の作り手のもとへ旅をするような気持で展示室をめぐり、現代の優れた手仕事の数々をお楽しみいただけますと幸いです。(以上は会場でもらった資料を転記)
↓パンフレット
↓大阪日本民芸館の外観
↓館内の売店風景
↓展示室は撮影禁止ですので、以下の写真は上記サイトより借用。
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◎矢野阪神が両リーグ最速の30敗到達 26日にも自力V消滅 マルテは登録抹消へ
https://www.daily.co.jp/tigers/2022/05/25/0015331355.shtml
阪神は先発の西純矢投手(20)が踏ん張り切れず、連勝が3でストップ。両リーグ最速の30敗到達となった。昨季からの交流戦連勝も7で止まった。26日も敗れ、首位のヤクルトが引き分け以上で自力優勝の可能性が消滅する。
西純は1-0で迎えた三回、2死一、二塁から浅村に中前へ同点適時打を浴びると、四回には辰己に左中間へ勝ち越しの3号ソロを許す。さらに五回1死一塁から浅村にも左中間へ7号2ランを打たれ、5回を8安打4失点で降板。今季先発した4試合で計6被本塁打となり、今後に課題を残した。
七回には3番手の斎藤が2死満塁から代打・銀次に左前2点適時打を許し、リードを広げられた。
打線は二回に大山が先制の左越え8号ソロを放つも、先発の辛島を攻略できず、リリーフ陣にも抑え込まれた。また、「3番・一塁」で先発出場したマルテが、二回の守備から途中交代するアクシデントに見舞われた。初回の走塁時に足を痛めたもようで、出場選手登録抹消の方向となった。
【本塁打】大山8号ソロ(2) 【マルチ安打】大山2 【マルチ三振】中野2 【失策】原口(5)
※西純の調子が悪かったが、打撃陣は大山以外不甲斐なかったですね。
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◎藤井聡太五冠、叡王初防衛 出口若武六段に3連勝
https://www.asahi.com/articles/ASQ5S65PZQ5SUCVL031.html?iref=comtop_IgoShougi_02
藤井聡太叡王(19)と挑戦者の出口若武(わかむ)六段(27)が戦う第7期叡王戦五番勝負(不二家主催)の第3局が24日、千葉県柏市で指され、藤井叡王が勝った。対戦成績3勝0敗でタイトルを防衛し、竜王、王位、王将、棋聖と合わせ五冠を守った。
藤井叡王はこの日の勝利で、タイトル戦の連勝記録を羽生善治九段(51)と並ぶ歴代2位タイの13とした。1位は大山康晴十五世名人(故人)の17連勝。
先手の藤井叡王の誘導で、第2局の千日手局を含めて今シリーズ4回目の「相懸かり」の戦いとなった。双方が4時間の持ち時間を使い切る「1分将棋」の熱戦になったが、ギリギリの終盤戦を藤井叡王が制した。藤井叡王は「最後まで苦しい局面が続いた」と振り返り、タイトル防衛について問われると「中盤で長考した場面が多かったが、それでもなかなか判断がつかないこともあった。そのあたりは課題を感じた」と話した。タイトル初挑戦の出口六段は「今日の将棋を負けたのは悔しい。もう少し鍛え直して上に上がっていければ」と話した。
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◎春季特別展「今のかたち~西日本の民藝~」
春季特別展 大阪日本民芸館開館50周年記念
期間:2022年3月5日~7月18日
会場:大阪府吹田市千里万博公園10-5 大阪日本民芸館
入館料:710円
https://www.sonoligo.com/events/5639
https://www.mingeikan-osaka.or.jp/2022/02/14/%E3%80%8E%E4%BB%8A%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%80%E2%80%95%E8%A5%BF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B0%91%E8%97%9D%E2%80%95%E3%80%8F/
【大阪日本民芸館について】
大阪日本民芸館は、千里万博公園の文化ゾーンの中に位置しており、日本庭園、国立民族学博物館に隣接しています。1970年3月から9月にかけて開催された日本万国博覧会において、関西財界企業有志と東京・駒場の「日本民藝館」が出展したパビリオンが元になっています。パビリオン「日本民藝館」では、「暮らしの美」をテーマに、江戸期の古民藝、当時の産地の手仕事、個人作家の新作品が展示されました。
万博終了後、財団法人大阪日本民芸館(2012年4月より公益財団法人へ移行)が設立され、柳宗悦(ヤナギムネヨシ)(1889-1961)が提唱した民藝運動の西の拠点、大阪日本民芸館として1972年に開館しました。陶磁器・染織品・木漆工品・編組品など、国内外から作品を収集し、展示公開を行ってきました。現在は、年2回(春季・秋季)の特別展を開催しています。
【民藝とはなにか】
民藝とは、民衆的工芸の略で柳らが作った造語です。彼らは、無名の職人によってつくられた日用雑器に驚くべき美を発見しました。
柳の新しい美の発見はまず朝鮮から始まり、日本の各地方にまで広がりました。当時、柳が発見した品々は、美的価値を認められておらず、「下手物」や「雑器」と呼ばれていました。そこで柳は、これに変わる新しい呼び名として「民衆的工藝」、略して「民藝」という呼び名を創造します。
民藝という新しい美を世の中に紹介した柳の活動には、陶芸家の濱田庄司(1894-1978)、河井寛次郎(1890-1966)、バーナード・リーチ(1887-1979)、芹沢銈介(1895-1984)、棟方志功(1903-75)といった個人作家達も加わっており、民藝を糧としてそれぞれに優れた作品を生み出しました。
民藝の特製について、柳は著書「工藝の道」の中で、「実用性」、「無銘性」、「多量性と廉価性」、「地方性」、「協業性」を挙げています。つまり、特定の個人が作ったものではなく、それぞれの地方の暮らしぶりに応じた実用性を、何世代にもわたる職人と使い手が追求してきた結果、自然と生み出された造形を指すものとしています。
さらに、柳は仏教思想の研究にも力を入れ、民藝との関連にも言及しています。沖縄や北海道をはじめとした地方の手仕事にも目を向け、様々な生活文化の中に美を発見し紹介しました。
★今のかたちー西日本の民藝ー(第1~4展示室・特別展)
大阪日本民芸館では、春季特別展大阪日本民芸館開設50周年記念「今のかたちー西日本の民藝ー」を開催いたします。
大阪千里丘陵で開催されたアジア初の国際博覧会であるEXPO’70に、関西財界有志と東京・駒場の日本民藝館は「暮らしの美」というテーマを掲げて、パビリオン「日本民藝館」を出展しました。そして大阪日本民芸館は、EXPO’70終了後の1972年、建物と作品の一部を引き継ぎ、「西日本の民藝運動の拠点」として大阪日本民芸館が開館し、今年で50周年の節目を迎えます。
本展では、これを記念して関西から沖縄までの西日本で活躍する現役の作り手達を中心に、約100名の作品を全館通して一堂にご覧いただきます。思想家の柳宗悦らが創始した民藝運動は、彼らが見出した美の紹介を主軸に、民藝館という常設展示施設の開館や、民藝協会といったコミュニティの設立、あるいは各地の手仕事の復興や支援など多彩な活動を行ってきました。その中でも、初期から意欲的に取り組まれていたのが、時代に即した新作を生み出し、それらを生活に結ぶことでした。こうした民藝運動には、柳自らが牽引していた当時から陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチ、染色家の芹沢銈介、板画家の棟方志功など分野が異なる多くの作り手が参加し、担い手として活躍してきました。
現在でも、民藝運動にはたくさんの作り手が関わっています。彼らは様々な立場、世代、地域性や制作の分野といった異なる状況の中で、それぞれに民藝と向き合いながら優れた作品、品物を生み出しています。
民藝という言葉のもとに集まった作り手達による「今のかたち」、その多様性や魅力を250点以上の作品を通してご紹介します。第一展示室では関西から山陰山陽・四国エリアの作品を、第二展示室では九州・沖縄エリアの作品を、そして最後の第三・四展示室では大型の染織作品をご覧いただきます。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、自由な移動や交流が不自由になってしまった今だからこそ、西日本各地の作り手のもとへ旅をするような気持で展示室をめぐり、現代の優れた手仕事の数々をお楽しみいただけますと幸いです。(以上は会場でもらった資料を転記)
↓パンフレット
↓大阪日本民芸館の外観
↓館内の売店風景
↓展示室は撮影禁止ですので、以下の写真は上記サイトより借用。
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◎矢野阪神が両リーグ最速の30敗到達 26日にも自力V消滅 マルテは登録抹消へ
https://www.daily.co.jp/tigers/2022/05/25/0015331355.shtml
阪神は先発の西純矢投手(20)が踏ん張り切れず、連勝が3でストップ。両リーグ最速の30敗到達となった。昨季からの交流戦連勝も7で止まった。26日も敗れ、首位のヤクルトが引き分け以上で自力優勝の可能性が消滅する。
西純は1-0で迎えた三回、2死一、二塁から浅村に中前へ同点適時打を浴びると、四回には辰己に左中間へ勝ち越しの3号ソロを許す。さらに五回1死一塁から浅村にも左中間へ7号2ランを打たれ、5回を8安打4失点で降板。今季先発した4試合で計6被本塁打となり、今後に課題を残した。
七回には3番手の斎藤が2死満塁から代打・銀次に左前2点適時打を許し、リードを広げられた。
打線は二回に大山が先制の左越え8号ソロを放つも、先発の辛島を攻略できず、リリーフ陣にも抑え込まれた。また、「3番・一塁」で先発出場したマルテが、二回の守備から途中交代するアクシデントに見舞われた。初回の走塁時に足を痛めたもようで、出場選手登録抹消の方向となった。
【本塁打】大山8号ソロ(2) 【マルチ安打】大山2 【マルチ三振】中野2 【失策】原口(5)
※西純の調子が悪かったが、打撃陣は大山以外不甲斐なかったですね。
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◎藤井聡太五冠、叡王初防衛 出口若武六段に3連勝
https://www.asahi.com/articles/ASQ5S65PZQ5SUCVL031.html?iref=comtop_IgoShougi_02
藤井聡太叡王(19)と挑戦者の出口若武(わかむ)六段(27)が戦う第7期叡王戦五番勝負(不二家主催)の第3局が24日、千葉県柏市で指され、藤井叡王が勝った。対戦成績3勝0敗でタイトルを防衛し、竜王、王位、王将、棋聖と合わせ五冠を守った。
藤井叡王はこの日の勝利で、タイトル戦の連勝記録を羽生善治九段(51)と並ぶ歴代2位タイの13とした。1位は大山康晴十五世名人(故人)の17連勝。
先手の藤井叡王の誘導で、第2局の千日手局を含めて今シリーズ4回目の「相懸かり」の戦いとなった。双方が4時間の持ち時間を使い切る「1分将棋」の熱戦になったが、ギリギリの終盤戦を藤井叡王が制した。藤井叡王は「最後まで苦しい局面が続いた」と振り返り、タイトル防衛について問われると「中盤で長考した場面が多かったが、それでもなかなか判断がつかないこともあった。そのあたりは課題を感じた」と話した。タイトル初挑戦の出口六段は「今日の将棋を負けたのは悔しい。もう少し鍛え直して上に上がっていければ」と話した。
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戦国時代展(京都文化博物館)、浅田真央引退表明 [歴史館・博物館]
4月12日(水) 友人より「戦国時代展」の招待券をいただいたので、9日(日)に行ってきました。開場の30分前に到着したので、周辺を散策しました。
★中京郵便局旧庁舎
↓郵便局内に無料の「壁面博物館」があります
◎京都文化博物館
住所:京都市中京区三条高倉
http://www.bunpaku.or.jp/
京都文化博物館(きょうとぶんかはくぶつかん、The Museum of Kyoto、通称ぶんぱく)は、京都市中京区にある博物館で京都の歴史と文化の紹介を目的とし平安建都1200年記念事業として創立された。建物は京都府が建設し、運営は公益財団法人京都文化財団が行っている。1988年(昭和63年)10月1日開館。正式名称は「京都府京都文化博物館」。
前身は平安博物館と称し財団法人古代学協会の施設として1968年(昭和43年)に作られた私立博物館であった。平安博物館の建物は旧日本銀行京都支店(重要文化財)であったが、京都文化博物館を創設するにあたり財団法人古代学協会から京都府に寄贈された。旧日本銀行京都支店の建物は現在は京都文化博物館の別館として使用されている。
別館の北側に鉄筋コンクリート造地上7階地下1階の建物が新たに建てられ、これが京都文化博物館の本館として使用されている。本展はこの本館の4階・3階展示室で開催された。
↓別館
↓本館
★戦国時代展
期間:2017年2月25日~4月16日
会場:京都文化博物館本館 4・3階展示室
入場料:一般1,300円
http://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/sengoku2017/
開催趣旨
日本における戦国時代は、相次ぐ戦乱により秩序が大きく乱れた時代だとイメージされてきました。ところが近年では、この時代は、各地で対立・戦乱がおきながらも、列島規模で文化的・経済的な実りをもたらした時期だと考えられるようになっています。
室町幕府の政治権力がおとろえ、上杉謙信、武田信玄、毛利元就、織田信長など有力大名たちは領国の経営に力を入れるようになり、その結果、京都で成熟した文化が列島各地へともたらされ、新たな地域文化として再生産されたのでした。
本展では、合戦の様子や武将の姿を伝える歴史資料、列島の各地で生成された貴重な美術工芸品を一堂に展示し、多様な広がりを見せたこの時代とたくましく生きた人々の姿に迫ります。
↓リフレット(表紙)
【序章 −時代の転換−】
「戦国時代」は、果たしてどのような時代であったのか。威勢に溢れる武具や甲冑(かっちゅう)、美麗を極める絵画の数々、あるいは戦災により焼かれ、破棄された数多くの遺物は、いずれも戦国人の声を我々に届けてくれる。本章から戦国時代への旅をはじめたい。
【第1章 合戦 −静寂と喧騒−】
戦国時代、武将たちはどのように戦っていたのか。 武器を交わすだけが戦場ではない。軍旗がはためく陣中には兵士の生活があった。また、戦闘の指揮には法螺貝(ほらがい)や陣鐘(じんかね)が用いられ、突き進む軍勢の雄叫(おたけ)びや地響きとともにさまざまな音が轟いていたであろう。戦場の静寂と喧騒を伝える、これらの戦道具は合戦のリアリティを今に伝えている。
【第2章 群雄 −翔け抜けた人々−】
武将のすがたは、残された肖像画やそのゆかりの品々に現れる。たとえ肖像画が伝わらない武将であっても、ゆかりの品々は雄弁に武将の個性を物語る。甲冑や武器はその代表であろう。それには外見だけではなく、武人としての理想や思考をも見出すことができる。また、文化的な嗜好を示す愛用品や芸術作品を残した武将も少なくない。そこには勇猛さだけではない、さまざまな武将像が浮かび上がってくる。
【第3章 権威 −至宝への憧れ−】
大乱を経て、列島各地にはさまざまな権力が生まれた。しかし、朝廷は依然として存在し、室町幕府も弱体化しながらも維持されていた。戦乱の世にあっても、京都で蓄積された美術品や長い時間をかけて整えられた制度・秩序は、なおも列島各地に影響を与えたのである。
【第4章 列島 −往来する人と物−】
戦国時代のはじまりの頃は今につながる村や町が成立した時期でもあった。村人、町人、商人など、多くの人々が活躍し、列島を旅するようになった。さらに当時の交通は、列島の外へも通じていた。北方ではアイヌ社会との交流、西国では明や朝鮮などとの通交、さらに南方からは後の南蛮貿易につながる東南アジアとの交易も行われた。列島内外でやりとりされた文物は今も各所に伝わっている。
【終章 −新たなる秩序−】
将軍や大名らの思惑で多くの合戦が起こった戦国時代。その戦乱の背景で多くの人々はいったい何を望んでいたのだろうか。その一端は神仏に平安を願った心の中にあったのかもしれない。
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◎浅田真央引退表明 http://www.asahi.com/articles/ASK4C5CT9K4CUTQP02R.html
↓(AFPBBニュースより)
フィギュアスケートの元世界女王、浅田真央(Mao Asada)が現役引退するという衝撃の発表から一夜明けた11日、国内では同選手に対する感謝の声が相次いだ。
2008年、2010年、2014年の世界選手権(ISU World Figure Skating Championships)でタイトルを獲得した26歳の浅田が、自身の公式ブログでスケートを離れると表明したニュースは、各テレビ局で一斉に速報で伝えられた。
浅田の現役引退は同日の朝までにNHKがトップニュースとして伝えるなど、朝鮮半島との間に増大している政治的緊張までも追いやった。
主要新聞各社が一面で引退発表を取り上げる一方で、スポーツ紙は「ありがとう、真央」や「ありがとう、大好きな真央」という見出しで、同選手への感情を表していた。
政府もこのニュースに反応を示しており、安倍晋三(Shinzo Abe)首相の右腕である菅義偉(Yoshihide Suga)官房長官は、午前中の定例会見で、「スケートの魅力を凝縮させたような演技で、多くの国民の心を魅了した選手」と述べた。
2010年のバンクーバー冬季五輪で韓国の金妍児(Yu-Na Kim、キム・ヨナ)氏に次ぐ銀メダリストとなった浅田は、五輪で表彰台の中央に上ったことは一度もなかったものの、そのことはファンにとっては何の問題でもなかったとみられる。
2020年東京五輪の責任者である丸川珠代(Tamayo Marukawa)五輪相も、「五輪では金メダルを取れなかったが、彼女の存在や輝きは金メダルだったと思う」と称賛した。
浅田の引退に対して、テレビコメンテーターと同様に他のアスリートも反応を示しており、サッカー日本代表でイタリア・セリエAのインテル(Inter Milan)に所属する長友佑都(Yuto Nagatomo)は、「アスリートとして華があり、人間的にも魅力的なオーラがある。個人的に凄く好きな選手だった」とツイッター(Twitter)につづった。
浅田とともに2010年のバンクーバー冬季五輪に出場したフィギュアスケーターの織田信成(Nobunari Oda)氏は、テレビ番組の生放送で涙を流しながら「すごく寂しい」とコメントした。
浅田は最後に女王の座に君臨した世界選手権を終えてから、疲労を理由に1年間の休養期間に入った。しかし、2015-16シーズンに復帰して以降は成績が急降下をたどり始め、昨年12月の全日本フィギュアスケート選手権(Japan Figure Skating Championships 2016)では12位という屈辱の結果に終わった。
15歳にして圧巻の優勝を果たしたグランプリ(GP)ファイナルを含め、10代の頃から浅田のスケートを見守ってきた日本人の多くが同選手に親近感を覚えている。しかし、国民の愛情を間違いなく決定づけたのは、2014年ソチ冬季五輪でショートプログラム(SP)の演技に失敗した後の姿だった。
重圧の緊張感に包まれる中で臨んだフリースケーティング(FS)で、浅田は完璧なパフォーマンスを披露する復活を遂げた。メダルには届かなかったものの、日本中が浅田を通して、逆境の中でも決してあきらめないという国民性を見いだした。
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★中京郵便局旧庁舎
↓郵便局内に無料の「壁面博物館」があります
◎京都文化博物館
住所:京都市中京区三条高倉
http://www.bunpaku.or.jp/
京都文化博物館(きょうとぶんかはくぶつかん、The Museum of Kyoto、通称ぶんぱく)は、京都市中京区にある博物館で京都の歴史と文化の紹介を目的とし平安建都1200年記念事業として創立された。建物は京都府が建設し、運営は公益財団法人京都文化財団が行っている。1988年(昭和63年)10月1日開館。正式名称は「京都府京都文化博物館」。
前身は平安博物館と称し財団法人古代学協会の施設として1968年(昭和43年)に作られた私立博物館であった。平安博物館の建物は旧日本銀行京都支店(重要文化財)であったが、京都文化博物館を創設するにあたり財団法人古代学協会から京都府に寄贈された。旧日本銀行京都支店の建物は現在は京都文化博物館の別館として使用されている。
別館の北側に鉄筋コンクリート造地上7階地下1階の建物が新たに建てられ、これが京都文化博物館の本館として使用されている。本展はこの本館の4階・3階展示室で開催された。
↓別館
↓本館
★戦国時代展
期間:2017年2月25日~4月16日
会場:京都文化博物館本館 4・3階展示室
入場料:一般1,300円
http://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/sengoku2017/
開催趣旨
日本における戦国時代は、相次ぐ戦乱により秩序が大きく乱れた時代だとイメージされてきました。ところが近年では、この時代は、各地で対立・戦乱がおきながらも、列島規模で文化的・経済的な実りをもたらした時期だと考えられるようになっています。
室町幕府の政治権力がおとろえ、上杉謙信、武田信玄、毛利元就、織田信長など有力大名たちは領国の経営に力を入れるようになり、その結果、京都で成熟した文化が列島各地へともたらされ、新たな地域文化として再生産されたのでした。
本展では、合戦の様子や武将の姿を伝える歴史資料、列島の各地で生成された貴重な美術工芸品を一堂に展示し、多様な広がりを見せたこの時代とたくましく生きた人々の姿に迫ります。
↓リフレット(表紙)
【序章 −時代の転換−】
「戦国時代」は、果たしてどのような時代であったのか。威勢に溢れる武具や甲冑(かっちゅう)、美麗を極める絵画の数々、あるいは戦災により焼かれ、破棄された数多くの遺物は、いずれも戦国人の声を我々に届けてくれる。本章から戦国時代への旅をはじめたい。
【第1章 合戦 −静寂と喧騒−】
戦国時代、武将たちはどのように戦っていたのか。 武器を交わすだけが戦場ではない。軍旗がはためく陣中には兵士の生活があった。また、戦闘の指揮には法螺貝(ほらがい)や陣鐘(じんかね)が用いられ、突き進む軍勢の雄叫(おたけ)びや地響きとともにさまざまな音が轟いていたであろう。戦場の静寂と喧騒を伝える、これらの戦道具は合戦のリアリティを今に伝えている。
【第2章 群雄 −翔け抜けた人々−】
武将のすがたは、残された肖像画やそのゆかりの品々に現れる。たとえ肖像画が伝わらない武将であっても、ゆかりの品々は雄弁に武将の個性を物語る。甲冑や武器はその代表であろう。それには外見だけではなく、武人としての理想や思考をも見出すことができる。また、文化的な嗜好を示す愛用品や芸術作品を残した武将も少なくない。そこには勇猛さだけではない、さまざまな武将像が浮かび上がってくる。
【第3章 権威 −至宝への憧れ−】
大乱を経て、列島各地にはさまざまな権力が生まれた。しかし、朝廷は依然として存在し、室町幕府も弱体化しながらも維持されていた。戦乱の世にあっても、京都で蓄積された美術品や長い時間をかけて整えられた制度・秩序は、なおも列島各地に影響を与えたのである。
【第4章 列島 −往来する人と物−】
戦国時代のはじまりの頃は今につながる村や町が成立した時期でもあった。村人、町人、商人など、多くの人々が活躍し、列島を旅するようになった。さらに当時の交通は、列島の外へも通じていた。北方ではアイヌ社会との交流、西国では明や朝鮮などとの通交、さらに南方からは後の南蛮貿易につながる東南アジアとの交易も行われた。列島内外でやりとりされた文物は今も各所に伝わっている。
【終章 −新たなる秩序−】
将軍や大名らの思惑で多くの合戦が起こった戦国時代。その戦乱の背景で多くの人々はいったい何を望んでいたのだろうか。その一端は神仏に平安を願った心の中にあったのかもしれない。
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◎浅田真央引退表明 http://www.asahi.com/articles/ASK4C5CT9K4CUTQP02R.html
↓(AFPBBニュースより)
フィギュアスケートの元世界女王、浅田真央(Mao Asada)が現役引退するという衝撃の発表から一夜明けた11日、国内では同選手に対する感謝の声が相次いだ。
2008年、2010年、2014年の世界選手権(ISU World Figure Skating Championships)でタイトルを獲得した26歳の浅田が、自身の公式ブログでスケートを離れると表明したニュースは、各テレビ局で一斉に速報で伝えられた。
浅田の現役引退は同日の朝までにNHKがトップニュースとして伝えるなど、朝鮮半島との間に増大している政治的緊張までも追いやった。
主要新聞各社が一面で引退発表を取り上げる一方で、スポーツ紙は「ありがとう、真央」や「ありがとう、大好きな真央」という見出しで、同選手への感情を表していた。
政府もこのニュースに反応を示しており、安倍晋三(Shinzo Abe)首相の右腕である菅義偉(Yoshihide Suga)官房長官は、午前中の定例会見で、「スケートの魅力を凝縮させたような演技で、多くの国民の心を魅了した選手」と述べた。
2010年のバンクーバー冬季五輪で韓国の金妍児(Yu-Na Kim、キム・ヨナ)氏に次ぐ銀メダリストとなった浅田は、五輪で表彰台の中央に上ったことは一度もなかったものの、そのことはファンにとっては何の問題でもなかったとみられる。
2020年東京五輪の責任者である丸川珠代(Tamayo Marukawa)五輪相も、「五輪では金メダルを取れなかったが、彼女の存在や輝きは金メダルだったと思う」と称賛した。
浅田の引退に対して、テレビコメンテーターと同様に他のアスリートも反応を示しており、サッカー日本代表でイタリア・セリエAのインテル(Inter Milan)に所属する長友佑都(Yuto Nagatomo)は、「アスリートとして華があり、人間的にも魅力的なオーラがある。個人的に凄く好きな選手だった」とツイッター(Twitter)につづった。
浅田とともに2010年のバンクーバー冬季五輪に出場したフィギュアスケーターの織田信成(Nobunari Oda)氏は、テレビ番組の生放送で涙を流しながら「すごく寂しい」とコメントした。
浅田は最後に女王の座に君臨した世界選手権を終えてから、疲労を理由に1年間の休養期間に入った。しかし、2015-16シーズンに復帰して以降は成績が急降下をたどり始め、昨年12月の全日本フィギュアスケート選手権(Japan Figure Skating Championships 2016)では12位という屈辱の結果に終わった。
15歳にして圧巻の優勝を果たしたグランプリ(GP)ファイナルを含め、10代の頃から浅田のスケートを見守ってきた日本人の多くが同選手に親近感を覚えている。しかし、国民の愛情を間違いなく決定づけたのは、2014年ソチ冬季五輪でショートプログラム(SP)の演技に失敗した後の姿だった。
重圧の緊張感に包まれる中で臨んだフリースケーティング(FS)で、浅田は完璧なパフォーマンスを披露する復活を遂げた。メダルには届かなかったものの、日本中が浅田を通して、逆境の中でも決してあきらめないという国民性を見いだした。
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旧三上家住宅(京都府宮津市) [歴史館・博物館]
8月26日(水) 丹後地方周遊の旅の記事に戻ります。智源寺の次に訪れたのは、重要文化財に指定されている「旧三上家住宅」です。
ペットの入場不可ですので、私だけ見学しました。
◎旧三上家住宅 (重要文化財)
住所:京都府宮津市字河原1850
電話:0772-22-7529
観覧料:一般350円
http://www.amanohashidate.jp/mikamike/
旧三上家住宅は江戸時代に酒造業・廻船業・糸問屋等を営む、宮津城下有数の商家「元結屋(もっといや)三上家」の住宅でした。外見は美しい白壁の造りで、座敷等は非常に質の高い贅を尽くしたものとなっています。
三上家の出自は明らかではありませんが、一説によると但馬国(兵庫県北部)を支配した守護大名・山名氏に仕えていたと考えられています。その後、但馬・因幡(鳥取県東部)で起きた山名氏の内紛により三上一族は丹後に逃れ、一時、宮津藩主・永井信濃守(1674~80年在任)に召し抱えられたこともありましたが、のち町人になったと伝えられています。元結屋元祖の清兵衛が元禄2年(1689)に没しており、創業はその前後のことと考えられます。
宮津藩では町名主として町政に重きをなし、また藩財政にも深くかかわっていました。天保9年(1838)には幕府巡見使の本陣となり、慶応4年(1868)には、戊辰戦争の際の山陰道鎮撫使・西園寺公望の宿所ともなりました。
明治以降、蒸気船の登場で全国的に北前船が衰退し、三上家も酒造業を中心とした経営に転換しました。昭和初期には、三上勘兵衛が11代目の宮津町長を務めるなど、近代においても三上家は、宮津の政界・実業界で重要な位置を占めていました。
平成元年に京都府指定有形文化財となった三上家の住宅を、平成8年に宮津市が購入し、調査・整備を進め、平成12年春から一般公開しています。平成15年には主屋をはじめとする8棟が国の重要文化財に指定されました。その間、平成12年には庭園が京都府指定名勝となっています。
↓外観
↓拝観出入口
↓説明板
↓配置図
↓観覧券
↓酒造施設、手前は大釜
↓麹室
↓北前船コーナー
↓土間
ここからは、靴を脱いで座敷に上がります。
↓新座敷
↓玄関
↓表門
↑表門と武家屋敷の玄関は、1838年、幕府巡見使を迎える際、本陣としての形を整えるために造られた。
↓茶室
★三上家庭園 (京都府指定名勝)
庭園は敷地の南隅に位置し、ニワザシキ(庭座敷)から、南方向への座視鑑賞を主とする配置に築かれています。
池は縁先をめぐるかたちで蛇行し、庭園の中核となる低めの築山上部には、起伏に富んだひときわ背の高い石が豪快に据えられ、その周囲には上部が平らで安定感のある多数の立石を配置して、重畳とした石組の景観を形成しています。築山の裾は池のほぼ中央に突き出し、ニワザシキ側とは反りのある切石の橋で結ばれています。
家伝では、宮津藩御用庭師の江戸金の作庭と伝え、幕府巡見使や西園寺公望、有栖川宮熾仁親王をはじめ、当家を訪れたり宿泊した人々の目を楽しませたものと思われます。
石組の迫力が低下していく江戸時代中末期の民家庭園のなかで、一般的な傾向に反して、市中の限られた空間に池と築山を設け、特徴ある形の石を大胆に配置しており、座視鑑賞を強く意識した商家の庭園として価値の高いもので、平成12年に京都府指定名勝に指定されました。
↓茶室前より庭座敷を望む
↓庭座敷から茶室方面を望む
↓庭座敷から庭園を望む
↑一番の見所ですが、すべての障子が開けられていなかったのが残念です。
↓土の防火扉
※11時6分に旧三上住宅を出発し、「天橋立」へ向かいました。次回に続きます。
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ペットの入場不可ですので、私だけ見学しました。
◎旧三上家住宅 (重要文化財)
住所:京都府宮津市字河原1850
電話:0772-22-7529
観覧料:一般350円
http://www.amanohashidate.jp/mikamike/
旧三上家住宅は江戸時代に酒造業・廻船業・糸問屋等を営む、宮津城下有数の商家「元結屋(もっといや)三上家」の住宅でした。外見は美しい白壁の造りで、座敷等は非常に質の高い贅を尽くしたものとなっています。
三上家の出自は明らかではありませんが、一説によると但馬国(兵庫県北部)を支配した守護大名・山名氏に仕えていたと考えられています。その後、但馬・因幡(鳥取県東部)で起きた山名氏の内紛により三上一族は丹後に逃れ、一時、宮津藩主・永井信濃守(1674~80年在任)に召し抱えられたこともありましたが、のち町人になったと伝えられています。元結屋元祖の清兵衛が元禄2年(1689)に没しており、創業はその前後のことと考えられます。
宮津藩では町名主として町政に重きをなし、また藩財政にも深くかかわっていました。天保9年(1838)には幕府巡見使の本陣となり、慶応4年(1868)には、戊辰戦争の際の山陰道鎮撫使・西園寺公望の宿所ともなりました。
明治以降、蒸気船の登場で全国的に北前船が衰退し、三上家も酒造業を中心とした経営に転換しました。昭和初期には、三上勘兵衛が11代目の宮津町長を務めるなど、近代においても三上家は、宮津の政界・実業界で重要な位置を占めていました。
平成元年に京都府指定有形文化財となった三上家の住宅を、平成8年に宮津市が購入し、調査・整備を進め、平成12年春から一般公開しています。平成15年には主屋をはじめとする8棟が国の重要文化財に指定されました。その間、平成12年には庭園が京都府指定名勝となっています。
↓外観
↓拝観出入口
↓説明板
↓配置図
↓観覧券
↓酒造施設、手前は大釜
↓麹室
↓北前船コーナー
↓土間
ここからは、靴を脱いで座敷に上がります。
↓新座敷
↓玄関
↓表門
↑表門と武家屋敷の玄関は、1838年、幕府巡見使を迎える際、本陣としての形を整えるために造られた。
↓茶室
★三上家庭園 (京都府指定名勝)
庭園は敷地の南隅に位置し、ニワザシキ(庭座敷)から、南方向への座視鑑賞を主とする配置に築かれています。
池は縁先をめぐるかたちで蛇行し、庭園の中核となる低めの築山上部には、起伏に富んだひときわ背の高い石が豪快に据えられ、その周囲には上部が平らで安定感のある多数の立石を配置して、重畳とした石組の景観を形成しています。築山の裾は池のほぼ中央に突き出し、ニワザシキ側とは反りのある切石の橋で結ばれています。
家伝では、宮津藩御用庭師の江戸金の作庭と伝え、幕府巡見使や西園寺公望、有栖川宮熾仁親王をはじめ、当家を訪れたり宿泊した人々の目を楽しませたものと思われます。
石組の迫力が低下していく江戸時代中末期の民家庭園のなかで、一般的な傾向に反して、市中の限られた空間に池と築山を設け、特徴ある形の石を大胆に配置しており、座視鑑賞を強く意識した商家の庭園として価値の高いもので、平成12年に京都府指定名勝に指定されました。
↓茶室前より庭座敷を望む
↓庭座敷から茶室方面を望む
↓庭座敷から庭園を望む
↑一番の見所ですが、すべての障子が開けられていなかったのが残念です。
↓土の防火扉
※11時6分に旧三上住宅を出発し、「天橋立」へ向かいました。次回に続きます。
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日本民家集落博物館(服部緑地) [歴史館・博物館]
4月1日(水) 本日は、「はな」の満7ヶ月の誕生日です。我家の家族になって、はや4ヶ月経過しました。我家の生活サイクルに、なくてはならない存在になりました。
3月7日に避妊手術のため、お腹の毛を剃られましたが、今では毛もはえ、手術跡もわからない位になりました。現在の体重は、5.25kgです。今日から一日の食事回数を3回から2回に変更します。昼食時には鳴くでしょうね。
↓現在のお腹 ↓3月7日手術直後のお腹
昨日は、快晴で絶好の花見日和でしたので、服部緑地公園へ行ってきました。
第一駐車場へとめて、服部緑地公園へ入り、まず「日本民家集落博物館」へ入場しました。
◎日本民家集落博物館
住所:大阪府豊中市服部緑地1-2
電話:06-6862-3137
入館料:大人500円。駐車料:2時間520円
http://www.occh.or.jp/minka/
日本民家集落博物館は、日本各地の代表的な民家を移築復元し、関連民具と合わせて展示する為に1956年(昭和31年)に日本で最初に設置された野外博物館です。
大阪府豊中市の服部緑地公園の一角で梅、桜、竹、柿、その他多くの樹木や草花に囲まれた約3万6千m2の敷地内に、北は岩手県「南部の曲家」から南は鹿児島県「奄美大島の高倉」まで11棟の民家を集めています。いずれの民家も17~19世紀(江戸時代)に建築され、昭和30年代まで人々が生活を営んでおられたものであります。その他に奄美大島・山陰のクリ船、堺の風車なども展示しております。
↓日向椎葉の民家(宮崎県)(国指定重要文化財)
↓奄美大島の高倉(鹿児島県)(大阪府指定有形文化財)
↓堺の風車(大阪府)
↓越前敦賀の民家(福井県)(大阪府指定有形文化財)
↓南部の曲屋(岩手県)(大阪府指定有形文化財)
↓小豆島の農村歌舞伎舞台(香川県)(大阪府指定有形民俗文化財)
↓気分いいワン
↓大和十津川の民家(奈良県)(大阪府指定有形文化財)
====================
◎マイアミ・オープン、錦織ベスト16
④錦織 圭 6-2、6-2 ㉜ヴィクトル・トロイキ
錦織は4回戦へ進出。4回戦の相手は、18シードのダビド・ゴフィンです。
=====================
◎選抜高校野球(10日目・準決勝)
●大阪桐蔭(大阪) 0−11 ○敦賀気比(福井)
※敦賀気比の6番松本君が、連続満塁本塁打という偉業を達成。もちろん大会史上初。
●浦和学院(埼玉) 1−3 ○東海大四(北海道)
※優勝争いは、大阪桐蔭と浦和学院の間と思っていましたが、見事に外れましたね。
==========================
◎昨日の阪神タイガース
3点リードを守れず、能見投手は敗戦投手。エースとは呼べない結果ですね。
これで阪神の連勝は、「3」でストップしました。
回 数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) 神宮、 18:05、 26,280人
阪 神:300・000・000・・・・・・・3・・・・・・・・(8)
ヤクルト:010・030・00×・・・・・・・4・・・・・・・・(8)
【本塁打】西岡1号3ラン(1回、成瀬)、雄平1号ソロ(2回、能見)
【マルチ安打】鳥谷2、ゴメス2
【投手】
●能見 5回(7安打、2三振、3四球、4失点(1敗) 無駄な四球が多い
・安藤 1回:1安打、無三振、無四球、無失点
・榎田 1回:無安打、1三振、2四球、無失点
・桑原 1回:無安打、1三振、無四球、無失点
○成瀬 5回:6安打、1三振、3四球、3失点(1勝)
Sバーネット 1回:無安打、無三振、1四球、無失点(1勝1S)
=======================
◎ハリル日本、2戦目快勝
○日本 5-1 ●ウズベキスタン
※日本のゴール:青山、岡崎、柴崎、宇佐美、川又
世界ランク53位の日本は、格下の世界ランク72位のウズベキスタンに快勝。
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3月7日に避妊手術のため、お腹の毛を剃られましたが、今では毛もはえ、手術跡もわからない位になりました。現在の体重は、5.25kgです。今日から一日の食事回数を3回から2回に変更します。昼食時には鳴くでしょうね。
↓現在のお腹 ↓3月7日手術直後のお腹
昨日は、快晴で絶好の花見日和でしたので、服部緑地公園へ行ってきました。
第一駐車場へとめて、服部緑地公園へ入り、まず「日本民家集落博物館」へ入場しました。
◎日本民家集落博物館
住所:大阪府豊中市服部緑地1-2
電話:06-6862-3137
入館料:大人500円。駐車料:2時間520円
http://www.occh.or.jp/minka/
日本民家集落博物館は、日本各地の代表的な民家を移築復元し、関連民具と合わせて展示する為に1956年(昭和31年)に日本で最初に設置された野外博物館です。
大阪府豊中市の服部緑地公園の一角で梅、桜、竹、柿、その他多くの樹木や草花に囲まれた約3万6千m2の敷地内に、北は岩手県「南部の曲家」から南は鹿児島県「奄美大島の高倉」まで11棟の民家を集めています。いずれの民家も17~19世紀(江戸時代)に建築され、昭和30年代まで人々が生活を営んでおられたものであります。その他に奄美大島・山陰のクリ船、堺の風車なども展示しております。
↓日向椎葉の民家(宮崎県)(国指定重要文化財)
↓奄美大島の高倉(鹿児島県)(大阪府指定有形文化財)
↓堺の風車(大阪府)
↓越前敦賀の民家(福井県)(大阪府指定有形文化財)
↓南部の曲屋(岩手県)(大阪府指定有形文化財)
↓小豆島の農村歌舞伎舞台(香川県)(大阪府指定有形民俗文化財)
↓気分いいワン
↓大和十津川の民家(奈良県)(大阪府指定有形文化財)
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◎マイアミ・オープン、錦織ベスト16
④錦織 圭 6-2、6-2 ㉜ヴィクトル・トロイキ
錦織は4回戦へ進出。4回戦の相手は、18シードのダビド・ゴフィンです。
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◎選抜高校野球(10日目・準決勝)
●大阪桐蔭(大阪) 0−11 ○敦賀気比(福井)
※敦賀気比の6番松本君が、連続満塁本塁打という偉業を達成。もちろん大会史上初。
●浦和学院(埼玉) 1−3 ○東海大四(北海道)
※優勝争いは、大阪桐蔭と浦和学院の間と思っていましたが、見事に外れましたね。
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◎昨日の阪神タイガース
3点リードを守れず、能見投手は敗戦投手。エースとは呼べない結果ですね。
これで阪神の連勝は、「3」でストップしました。
回 数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) 神宮、 18:05、 26,280人
阪 神:300・000・000・・・・・・・3・・・・・・・・(8)
ヤクルト:010・030・00×・・・・・・・4・・・・・・・・(8)
【本塁打】西岡1号3ラン(1回、成瀬)、雄平1号ソロ(2回、能見)
【マルチ安打】鳥谷2、ゴメス2
【投手】
●能見 5回(7安打、2三振、3四球、4失点(1敗) 無駄な四球が多い
・安藤 1回:1安打、無三振、無四球、無失点
・榎田 1回:無安打、1三振、2四球、無失点
・桑原 1回:無安打、1三振、無四球、無失点
○成瀬 5回:6安打、1三振、3四球、3失点(1勝)
Sバーネット 1回:無安打、無三振、1四球、無失点(1勝1S)
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◎ハリル日本、2戦目快勝
○日本 5-1 ●ウズベキスタン
※日本のゴール:青山、岡崎、柴崎、宇佐美、川又
世界ランク53位の日本は、格下の世界ランク72位のウズベキスタンに快勝。
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大津街歩きⅡ(大津祭曳山展示館) [歴史館・博物館]
11月12日(水) 大津街歩きの続きです。この日のお目当ての一つである「大津祭曳山展示館」にやってきました。大勢の人でいっぱいです。
◎大津祭曳山展示館
住所:滋賀県大津市中央1-2-27
電話:077-521-1013
入館料:無料。定休日:月曜
湖国三大祭の一つ大津祭をテーマにした展示館。大津祭は江戸時代初頭に創始されたといわれており、13基の曳山が、それぞれコンチキチンのお囃子にあわせ、各山のテーマに応じたからくりを披露します。展示館では原寸大の曳山の模型をはじめ、映像での大津祭の紹介も行っており、いつでも大津祭の賑わいと楽しさを体感することができます。
↓展示館の正面
↓展示館の側面
↓施設に入って直ぐには、西王母山の原寸大のレプリカが展示
↓マルチスライドで大津祭の様子を解説
↓2階に上がると、曳山のパネルや懸想品を展示
【大津祭の曳山一覧】
●西行桜狸山(さいぎょうざくらたぬきやま)1635年創建。俗に狸山とも呼ばれる。唯一の「くじ取らず」で毎年先頭で巡行する。所望(からくり)は、花の中から仙人が現れて西行法師と問答する。
●猩々山(しょうじょうやま)1637年創建。能楽の猩々から考案したもの。所望は、猩々が大盃で酒を飲む。
●西王母山(せいおうぼざん)1656年創建。俗に桃山とも呼ばれる。崑崙山に住むと言われる西王母から考案したもの。後に桃太郎の説話を加味したものとなった。所望は、桃が二つに割れ童子が生まれる。
●西宮蛭子山(にしのみやえびすやま)1658年創建。俗に鯛釣山とも呼ばれる。蛭子を出して飾っていたものを、後に曳山に載せるようになった。所望は、えびすが鯛を釣り上げる。
●殺生石山(せっしょうせきざん) 1662年創建。別名玄翁山。狐山とも。能楽の殺生石から考案したもの。所望は、玄翁和尚の法力により石が二つに割れ、玉藻前の顔が狐に変わる。
●湯立山(ゆたてやま)1663年創建。俗におちゃんぽ山とも呼ばれる。天孫神社の湯立ての神事から。所望は、笹で湯を奉り、巫女が神楽を奏する。
●郭巨山(かっきょやま)1693年創建。俗に釜掘山とも呼ばれる。中国二十四孝の一人郭巨から考案したもの。所望は、郭巨がくわで穴を掘り、黄金の釜を出す。
●孔明祈水山(こうめいきすいざん)1694年創建。蜀の諸葛孔明から考案したもの。所望は、孔明が扇を開いて水を招くと、水が涌き上がり流れ落ちる。
●石橋山(しゃっきょうざん)1705年創建。俗に唐獅子山とも呼ばれる。謡曲の石橋から考案したもの。所望は、岩石の中から唐獅子が出てきて牡丹の花に戯れ遊び、また岩の中に隠れる。
●龍門滝山(りゅうもんたきやま)1717年創建。俗に鯉山とも呼ばれる。登竜門の故事から考案したもの。所望は、龍門の滝を鯉が躍り上がる。
●源氏山(げんじやま)1718年創建。紫式部の源氏物語から考案したもの。所望は、紫式部が月を見ながら構想を練る様子を表現。
●神功皇后山(じんぐうこうごうやま)1749年創建。神功皇后が鮎を釣り戦勝を占ったという伝説から考案したもの。所望は、皇后が岩に弓で字を書く所作をすると、岩に文字が現れる。かつては鮎釣り山、征韓山とも呼ばれた。
●月宮殿山(げっきゅうでんざん)1776年創建。俗に鶴亀山とも呼ばれる。謡曲の鶴亀(月宮殿)から考案したもの。所望は、頭上に鶴と亀の冠をつけた男女の舞人が皇帝の前で舞う。
↓曳山の所在地(マウスを置くと拡大します)
↓2階の展示室には、13基の曳山のミニチュアが並んでいます。
↓カラクリの様子
↓西王母山の説明板
大津祭曳山展示館を出て、中町通を西に歩いていきました。
↓「寺田屋お登勢実家・升屋跡」光風堂
↓「大津百町館」
↑手作りの提灯が展示されていました。
======================
◎ATPワールドツアーファイナルズ
【Aグループ】一次リーグの初戦
○ワウリンカ③ 6-1、6-1 ●ベルディハ⑥
○ジョコビッチ① 6-1、6-1 ●チリッチ⑧
【Bグループ】一次リーグの第2戦
初戦を共に勝利した錦織圭とフェデラーが対戦しています。結果は明日報告します。
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◎大津祭曳山展示館
住所:滋賀県大津市中央1-2-27
電話:077-521-1013
入館料:無料。定休日:月曜
湖国三大祭の一つ大津祭をテーマにした展示館。大津祭は江戸時代初頭に創始されたといわれており、13基の曳山が、それぞれコンチキチンのお囃子にあわせ、各山のテーマに応じたからくりを披露します。展示館では原寸大の曳山の模型をはじめ、映像での大津祭の紹介も行っており、いつでも大津祭の賑わいと楽しさを体感することができます。
↓展示館の正面
↓展示館の側面
↓施設に入って直ぐには、西王母山の原寸大のレプリカが展示
↓マルチスライドで大津祭の様子を解説
↓2階に上がると、曳山のパネルや懸想品を展示
【大津祭の曳山一覧】
●西行桜狸山(さいぎょうざくらたぬきやま)1635年創建。俗に狸山とも呼ばれる。唯一の「くじ取らず」で毎年先頭で巡行する。所望(からくり)は、花の中から仙人が現れて西行法師と問答する。
●猩々山(しょうじょうやま)1637年創建。能楽の猩々から考案したもの。所望は、猩々が大盃で酒を飲む。
●西王母山(せいおうぼざん)1656年創建。俗に桃山とも呼ばれる。崑崙山に住むと言われる西王母から考案したもの。後に桃太郎の説話を加味したものとなった。所望は、桃が二つに割れ童子が生まれる。
●西宮蛭子山(にしのみやえびすやま)1658年創建。俗に鯛釣山とも呼ばれる。蛭子を出して飾っていたものを、後に曳山に載せるようになった。所望は、えびすが鯛を釣り上げる。
●殺生石山(せっしょうせきざん) 1662年創建。別名玄翁山。狐山とも。能楽の殺生石から考案したもの。所望は、玄翁和尚の法力により石が二つに割れ、玉藻前の顔が狐に変わる。
●湯立山(ゆたてやま)1663年創建。俗におちゃんぽ山とも呼ばれる。天孫神社の湯立ての神事から。所望は、笹で湯を奉り、巫女が神楽を奏する。
●郭巨山(かっきょやま)1693年創建。俗に釜掘山とも呼ばれる。中国二十四孝の一人郭巨から考案したもの。所望は、郭巨がくわで穴を掘り、黄金の釜を出す。
●孔明祈水山(こうめいきすいざん)1694年創建。蜀の諸葛孔明から考案したもの。所望は、孔明が扇を開いて水を招くと、水が涌き上がり流れ落ちる。
●石橋山(しゃっきょうざん)1705年創建。俗に唐獅子山とも呼ばれる。謡曲の石橋から考案したもの。所望は、岩石の中から唐獅子が出てきて牡丹の花に戯れ遊び、また岩の中に隠れる。
●龍門滝山(りゅうもんたきやま)1717年創建。俗に鯉山とも呼ばれる。登竜門の故事から考案したもの。所望は、龍門の滝を鯉が躍り上がる。
●源氏山(げんじやま)1718年創建。紫式部の源氏物語から考案したもの。所望は、紫式部が月を見ながら構想を練る様子を表現。
●神功皇后山(じんぐうこうごうやま)1749年創建。神功皇后が鮎を釣り戦勝を占ったという伝説から考案したもの。所望は、皇后が岩に弓で字を書く所作をすると、岩に文字が現れる。かつては鮎釣り山、征韓山とも呼ばれた。
●月宮殿山(げっきゅうでんざん)1776年創建。俗に鶴亀山とも呼ばれる。謡曲の鶴亀(月宮殿)から考案したもの。所望は、頭上に鶴と亀の冠をつけた男女の舞人が皇帝の前で舞う。
↓曳山の所在地(マウスを置くと拡大します)
↓2階の展示室には、13基の曳山のミニチュアが並んでいます。
↓カラクリの様子
↓西王母山の説明板
大津祭曳山展示館を出て、中町通を西に歩いていきました。
↓「寺田屋お登勢実家・升屋跡」光風堂
↓「大津百町館」
↑手作りの提灯が展示されていました。
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◎ATPワールドツアーファイナルズ
【Aグループ】一次リーグの初戦
○ワウリンカ③ 6-1、6-1 ●ベルディハ⑥
○ジョコビッチ① 6-1、6-1 ●チリッチ⑧
【Bグループ】一次リーグの第2戦
初戦を共に勝利した錦織圭とフェデラーが対戦しています。結果は明日報告します。
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小谷城戦国歴史資料館、小谷寺(滋賀県長浜市)、甲子園90周年を勝利 [歴史館・博物館]
8月2日(土) 7月5日の長浜ドライブ記を長々続けましたが、いよいよ最終回です。
「小谷城戦国歴史資料館」で、長浜浪漫パスポートを最後の5施設目として使用しました。
◎小谷城戦国歴史資料館
住所:滋賀県長浜市小谷郡上町139
電話:0749-78-2320
入館料:一般300円。休館日:火曜日
http://www.eonet.ne.jp/~odanijou-s/
戦国時代に北近江を統治した浅井三代、そして400年の時を経て国指定史跡として大切に守られてきた小谷城跡。当館では3人の城主と、その居城である小谷城にスポットを当てています。
↓入口
↓小谷城戦国歴史資料館
↓入館時もらったパンフレット
【第一展示室】小谷城主・浅井三代
戦国年表・浅井家、三姉妹の系図・浅井家ゆかりの史跡マップ等展示
【第二展示室】浅井氏の居城・小谷城
浅井家、小谷城10の質問・小谷城案内・映像シアター・曲輪復元イラスト等展示
★参考サイト:小谷城の生い立ち・小谷城の七不思議
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◎小谷寺 (おだにじ)
住所:滋賀県長浜市湖北町伊部329
電話:0749-78-0257
山号:如意輪山。宗派:真言宗豊山派。本尊:如意輪観音(秘仏・ )
開山:奈良時代の神亀5年(728)、泰澄大師
慈悲料:200円。浅井氏の祈願寺
近江湖北27名刹霊場11番札所、びわ湖百八霊場37番札所、准四国八十八ヵ所第14番札所、伊香三十三ヶ所番外札所、(本山は西国三十三ヶ所第8番の長谷寺)
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=605
http://www.biwa.ne.jp/~kohoku-s/chiiki/kank_odanitera.htm
もとは奈良時代に小谷山の山頂に修験の寺として建立(当初は妙法院常勝寺といわれた)。浅井氏より小谷城築城のため移転を要請され、小谷城下に移転。小谷城落城時に寺院焼失。落城後、秀吉の許しを受け再建。お市が柴田勝家に嫁ぐ途中に、小谷寺に立ち寄り厨子を奉納した。
↓小谷寺参道
↓小谷寺の山門と鐘楼
↓鐘楼の説明文
↓駐車場の方にある「小谷神社」
↓小谷神社の説明文
↓本堂(観音堂)
本尊の如意輪観音(22cm金銅像)は半跏思惟像の秘仏。
↓説明板(マウスを置くと拡大します)
↓本堂より少し後方の高い場所にある「お堂」
↓境内の地蔵たち
【7月5日の長浜ドライブ記一覧】
1.黒田官兵衛博物館(長浜城歴史博物館)歴史館等:2014.7.19
2.長浜宿散策:2014.7.20
3.長浜大手門通り「茂美志や」、夏中さん:2014.7.22
4.豊国神社、願養寺:2014.7.24
5.大通寺Ⅰ:2014.7.26
6.大通寺Ⅱ:2014.7.27
7.良◎寺(長浜びわこ大仏):2014.7.28
8.大河ドラマ館、木之本地蔵院:2014.7.29
9.黒田家御廟所、正覚寺:2014.7.31
10.小谷城戦国歴史資料館、小谷寺:2014.8.1
======================
◎昨日の阪神タイガース
回数:123・456・789・10・・・・・・・計・・・・・・・(安打) 甲子園、 18:00、 44,682人
横浜:020・001・100・0・・・・・・・4・・・・・・・・(14)
阪神:002・200・000・1・・・・・・・5・・・・・・・・(13)
【本塁打】バルディリス11号2ラン(2回、藤浪)
【マルチ安打】上本2、鳥谷2、マートン2、福留2、伊藤2
【打点】今成1、ゴメス1、福留1、藤浪2
【投手】
・藤浪 7回:11安打、10三振、2四球、4失点(打たれ過ぎ)
・福原 1回:無安打、無三振、無四球、無失点
・ 呉 1回:2安打、3三振、1四球、無失点
○榎田 1回:1安打、1三振、無四球、無失点(2勝1敗)
・井納 5回:9安打、無三振、1四球、4失点
●大原 3分の1:2安打、無三振、1四球、1失点(2勝1敗)
※甲子園球場生誕90周年の記念日を、福留のサヨナラ安打で飾る。
※DeNAの拙い攻守により、勝たせてもらった試合ですね。
※藤浪の7者連続三振は、球団タイ記録だそうです。
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「小谷城戦国歴史資料館」で、長浜浪漫パスポートを最後の5施設目として使用しました。
◎小谷城戦国歴史資料館
住所:滋賀県長浜市小谷郡上町139
電話:0749-78-2320
入館料:一般300円。休館日:火曜日
http://www.eonet.ne.jp/~odanijou-s/
戦国時代に北近江を統治した浅井三代、そして400年の時を経て国指定史跡として大切に守られてきた小谷城跡。当館では3人の城主と、その居城である小谷城にスポットを当てています。
↓入口
↓小谷城戦国歴史資料館
↓入館時もらったパンフレット
【第一展示室】小谷城主・浅井三代
戦国年表・浅井家、三姉妹の系図・浅井家ゆかりの史跡マップ等展示
【第二展示室】浅井氏の居城・小谷城
浅井家、小谷城10の質問・小谷城案内・映像シアター・曲輪復元イラスト等展示
★参考サイト:小谷城の生い立ち・小谷城の七不思議
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◎小谷寺 (おだにじ)
住所:滋賀県長浜市湖北町伊部329
電話:0749-78-0257
山号:如意輪山。宗派:真言宗豊山派。本尊:如意輪観音(秘仏・ )
開山:奈良時代の神亀5年(728)、泰澄大師
慈悲料:200円。浅井氏の祈願寺
近江湖北27名刹霊場11番札所、びわ湖百八霊場37番札所、准四国八十八ヵ所第14番札所、伊香三十三ヶ所番外札所、(本山は西国三十三ヶ所第8番の長谷寺)
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=605
http://www.biwa.ne.jp/~kohoku-s/chiiki/kank_odanitera.htm
もとは奈良時代に小谷山の山頂に修験の寺として建立(当初は妙法院常勝寺といわれた)。浅井氏より小谷城築城のため移転を要請され、小谷城下に移転。小谷城落城時に寺院焼失。落城後、秀吉の許しを受け再建。お市が柴田勝家に嫁ぐ途中に、小谷寺に立ち寄り厨子を奉納した。
↓小谷寺参道
↓小谷寺の山門と鐘楼
↓鐘楼の説明文
↓駐車場の方にある「小谷神社」
↓小谷神社の説明文
↓本堂(観音堂)
本尊の如意輪観音(22cm金銅像)は半跏思惟像の秘仏。
↓説明板(マウスを置くと拡大します)
↓本堂より少し後方の高い場所にある「お堂」
↓境内の地蔵たち
【7月5日の長浜ドライブ記一覧】
1.黒田官兵衛博物館(長浜城歴史博物館)歴史館等:2014.7.19
2.長浜宿散策:2014.7.20
3.長浜大手門通り「茂美志や」、夏中さん:2014.7.22
4.豊国神社、願養寺:2014.7.24
5.大通寺Ⅰ:2014.7.26
6.大通寺Ⅱ:2014.7.27
7.良◎寺(長浜びわこ大仏):2014.7.28
8.大河ドラマ館、木之本地蔵院:2014.7.29
9.黒田家御廟所、正覚寺:2014.7.31
10.小谷城戦国歴史資料館、小谷寺:2014.8.1
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◎昨日の阪神タイガース
回数:123・456・789・10・・・・・・・計・・・・・・・(安打) 甲子園、 18:00、 44,682人
横浜:020・001・100・0・・・・・・・4・・・・・・・・(14)
阪神:002・200・000・1・・・・・・・5・・・・・・・・(13)
【本塁打】バルディリス11号2ラン(2回、藤浪)
【マルチ安打】上本2、鳥谷2、マートン2、福留2、伊藤2
【打点】今成1、ゴメス1、福留1、藤浪2
【投手】
・藤浪 7回:11安打、10三振、2四球、4失点(打たれ過ぎ)
・福原 1回:無安打、無三振、無四球、無失点
・ 呉 1回:2安打、3三振、1四球、無失点
○榎田 1回:1安打、1三振、無四球、無失点(2勝1敗)
・井納 5回:9安打、無三振、1四球、4失点
●大原 3分の1:2安打、無三振、1四球、1失点(2勝1敗)
※甲子園球場生誕90周年の記念日を、福留のサヨナラ安打で飾る。
※DeNAの拙い攻守により、勝たせてもらった試合ですね。
※藤浪の7者連続三振は、球団タイ記録だそうです。
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池田市立歴史民俗資料館、 阪神3.5差の2位で折り返し [歴史館・博物館]
7月17日(木) 先日、池田市立歴史民俗資料館へ行って、企画展「池田市美術展ゆかりの作家たち」をブログにアップしましたが、今回は資料館の常設展や周辺について紹介します。
◎池田市立歴史民俗資料館
住所:大阪府池田市五月丘1-10-12
電話:072-451-3019
休館日:月・火
開館:昭和55年(1980)4月
駐車場:図書館と共用あり
年4回の企画展、年1回秋の特別展、常設展
http://www.city.ikeda.osaka.jp/sisetu/rekisi/
【常設展】無料
旧石器時代から近代にわたる「池田」の歴史的・文化的特性を、考古・歴史・民族・美術工芸などの資料を通じて紹介する。特に、池田市内の遺跡、遺構からの出土遺物(弥生~戦国期)をはじめ、池田の歴史、文化に関する様々な資料を分かり易く展示しています。
↓図書館。奥が歴史民俗資料館です。
↓歴史民俗資料館の入口
↓資料館の前の野外展示スペース
↓絹延橋を建て替えた時、近くにあった絹延小橋がなくなったので、石碑だけ、ここに移設。
↓村重の塚
↓説明板(マウスを置くと拡大します)
↓資料館の裏山にある「五月ヶ丘古墳」
↓説明板
↓陶棺は、資料館の常設展で、展示されています。
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◎昨日の阪神タイガース
回数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) ナゴヤドーム、 18:00、 29,033人
阪神:000・002・000・・・・・・・2・・・・・・・・(7)
中日:000・000・000・・・・・・・0・・・・・・・・(3)
【マルチ安打】上本2
【打点】上本1、大和1
【投手】
○メッセンジャー 8回:3安打、13三振、2四球、無失点(8勝7敗)
S 呉 1回:無安打、2三振、無四球、無失点(1勝2敗22S)
●吉見 7回:6安打、2三振、1四球、2失点(1敗)
※前半戦最後の9連戦が始まる前に、私は6勝3敗でいけば、後半戦も期待できると書きました。
結果は6勝2敗(1試合中止)と、期待以上の成績でした。これで、首位巨人に3.5差の2位で、後半戦に向えます。オールスター戦の期間に十分充電して、後半戦に臨んでほしいですね。
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◎池田市立歴史民俗資料館
住所:大阪府池田市五月丘1-10-12
電話:072-451-3019
休館日:月・火
開館:昭和55年(1980)4月
駐車場:図書館と共用あり
年4回の企画展、年1回秋の特別展、常設展
http://www.city.ikeda.osaka.jp/sisetu/rekisi/
【常設展】無料
旧石器時代から近代にわたる「池田」の歴史的・文化的特性を、考古・歴史・民族・美術工芸などの資料を通じて紹介する。特に、池田市内の遺跡、遺構からの出土遺物(弥生~戦国期)をはじめ、池田の歴史、文化に関する様々な資料を分かり易く展示しています。
↓図書館。奥が歴史民俗資料館です。
↓歴史民俗資料館の入口
↓資料館の前の野外展示スペース
↓絹延橋を建て替えた時、近くにあった絹延小橋がなくなったので、石碑だけ、ここに移設。
↓村重の塚
↓説明板(マウスを置くと拡大します)
↓資料館の裏山にある「五月ヶ丘古墳」
↓説明板
↓陶棺は、資料館の常設展で、展示されています。
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◎昨日の阪神タイガース
回数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) ナゴヤドーム、 18:00、 29,033人
阪神:000・002・000・・・・・・・2・・・・・・・・(7)
中日:000・000・000・・・・・・・0・・・・・・・・(3)
【マルチ安打】上本2
【打点】上本1、大和1
【投手】
○メッセンジャー 8回:3安打、13三振、2四球、無失点(8勝7敗)
S 呉 1回:無安打、2三振、無四球、無失点(1勝2敗22S)
●吉見 7回:6安打、2三振、1四球、2失点(1敗)
※前半戦最後の9連戦が始まる前に、私は6勝3敗でいけば、後半戦も期待できると書きました。
結果は6勝2敗(1試合中止)と、期待以上の成績でした。これで、首位巨人に3.5差の2位で、後半戦に向えます。オールスター戦の期間に十分充電して、後半戦に臨んでほしいですね。
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池田市美術展ゆかりの作家たち(池田市立歴史民俗資料館)、藤浪初完投 [歴史館・博物館]
7月16日(水) 我が町、池田市の見所の一つである「池田市立歴史民俗資料館」へ先日行ってきました。この資料館の記事は後日アップします。今回は、この資料館の小展示室での企画展をご紹介します。
◎池田市美術展ゆかりの作家たち
期間:2014年5月14日~7月20日
会場:池田市立歴史民俗資料館 小展示室
以下の文章・作品は、開場で配布されたリーフレットより転載
【はじめに】
昭和32年(1957)から開催されている池田市美術展は北摂を代表する公募展であり、ふるくから文化的な水準が高い地域といわれる池田の現代史を知る上で大変注目すべき展覧会といえます。
今回の企画展では、歴史民俗資料館などが所有する池田市美術展にゆかりのある作家の作品を紹介し、池田の文化史、現代史の一面に触れていただきたいと思います。
*池田市美術展:絵画など5部門で構成されている公募展。55回目を迎える今年は、新しくなった中央公民館を会場として9月21日から9月27日に開催される。
【芸術家が集う地 池田】
池田市美術展の開催までには、ふたつの流れがありました。ひとつは、池田市在住の芸術家の間で、地域における芸術発展を目指す機運が高まったことです。池田は自然豊かで大阪市内にも近いという良好な住環境を有しており、数多くの芸術家が居住しました。
たとえば、関西画壇の中心人物のひとり、鍋井克之は昭和5年(1930)に現在の住吉1丁目に転居し、同44年に亡くなるまで創作活動の拠点としていました。
鍋井のほかにも日展の胡桃沢源人・融紅鷥夫妻、二紀会の森本健二、山本直治などが石橋に住み、小西謙三、古家新らは室町に居を構えました。戦後日本の画壇の第一線で活躍していた作家たちが、池田市内で交流を重ねていき、そのなかで、地域の芸術発展に積極的にかかわる必要性を感じていたようです。
【市民の芸術への意識と美術協会の発足】
もうひとつの流れは、芸術を趣味とする池田市民のなかに、先の芸術家たちと同じ思いが生まれたことです。昭和31年(1956)、室町の居住者を中心に芸術創作の同好会「ささなき会」が生まれ、互いの作品を持ち寄り展覧会なども開いていました。同会のメンバーをはじめ、多くの市民の間に美術協会の創設と池田市規模の展覧会開催を望む声が高まっていきました。
こうして「池田市美術展を持とう!」という趣旨のもと、昭和32年2月15日、鍋井を中心に、胡桃沢夫妻ら画家のほか、「ささなき会」メンバーの市民らが集まり、池田市美術協会が発足しました。協会は発足以降、池田市の芸術発展に寄与し、市の文化行事に参画して力をつくしました。
【池田市美術展の開催】
池田市美術協会の発足に続き、昭和32年6月に第1回「池田市美術展」が市立池田幼稚園を会場として開催されました。同展は「美術への健全な発展助言と指導育成又啓蒙」という趣旨にもとづき、公募審査制が採用されています。また、美術展の運営は、池田市美術協会と池田市で構成する、池田市美術展委員会を設置して行いました。
ちなみに第1回審査員には鍋井克之、胡桃沢源人、森本健二、融紅鷥、小西謙三、古家新、城口幸男が委嘱されています。
【池田市美術展の展開】
昭和44年(1969)の第10回からは、鍋井記念賞(鍋井賞)が設けられました。関西画壇の重鎮であった鍋井の名を冠したこの賞は、今でも洋画家にとって特別な賞とされています。
池田市美術展の会場は、第2回からは池田市中央公民館で行われています。それ以降は同47、48年に建替えにともない、呉服小学校などへ移動することがありましたが、基本的には公民館で行われていました。
同展は、はじめ絵画の部しか設けられていませんでしたが、第20回からは書、第30回からは彫塑と写真、第37回から工芸の部が加えられ、合わせて5部門で構成されるようになりました。現在では、池田市だけでなく近隣からも作品を寄せられるような、北摂を代表する公募展に成長しています。
↓「スペイン・トレド サンマルタン橋」 平通武男(1973年制作)
↓「おしどり」 融紅鷥(1976年制作)
↓「冬の猪名川」 城口幸男(1977年制作)
↓「裳」 水嶋山耀(1971年制作)
↓「捨てられた魚」 山本直治(1979年制作)
↓「壁 VENEZIA」 伊藤岳
※9月開催される池田市美術展は、是非観に行こうと思っています。
===================
◎昨日の阪神タイガース
回数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) ナゴヤドーム、 18:00、 26,602人
阪神:300・002・300・・・・・・・8・・・・・・・・(9)
中日:000・000・100・・・・・・・1・・・・・・・・(5)
【本塁打】鳥谷6号3ラン(1回、雄太)
【マルチ安打】マートン2、新井貴3
【打点】鳥谷3、マートン1、新井貴2、新井良1
【盗塁】上本(1回、7回)。 【失策】伊藤、ゴメス、今成
【投手】
○藤浪 9回:5安打、13三振、2四球、1失点(7勝4敗)
●雄太 6回:7安打、4三振、2四球、5失点(3勝4敗)
※藤浪はプロ入り初完投勝利です。
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◎池田市美術展ゆかりの作家たち
期間:2014年5月14日~7月20日
会場:池田市立歴史民俗資料館 小展示室
以下の文章・作品は、開場で配布されたリーフレットより転載
【はじめに】
昭和32年(1957)から開催されている池田市美術展は北摂を代表する公募展であり、ふるくから文化的な水準が高い地域といわれる池田の現代史を知る上で大変注目すべき展覧会といえます。
今回の企画展では、歴史民俗資料館などが所有する池田市美術展にゆかりのある作家の作品を紹介し、池田の文化史、現代史の一面に触れていただきたいと思います。
*池田市美術展:絵画など5部門で構成されている公募展。55回目を迎える今年は、新しくなった中央公民館を会場として9月21日から9月27日に開催される。
【芸術家が集う地 池田】
池田市美術展の開催までには、ふたつの流れがありました。ひとつは、池田市在住の芸術家の間で、地域における芸術発展を目指す機運が高まったことです。池田は自然豊かで大阪市内にも近いという良好な住環境を有しており、数多くの芸術家が居住しました。
たとえば、関西画壇の中心人物のひとり、鍋井克之は昭和5年(1930)に現在の住吉1丁目に転居し、同44年に亡くなるまで創作活動の拠点としていました。
鍋井のほかにも日展の胡桃沢源人・融紅鷥夫妻、二紀会の森本健二、山本直治などが石橋に住み、小西謙三、古家新らは室町に居を構えました。戦後日本の画壇の第一線で活躍していた作家たちが、池田市内で交流を重ねていき、そのなかで、地域の芸術発展に積極的にかかわる必要性を感じていたようです。
【市民の芸術への意識と美術協会の発足】
もうひとつの流れは、芸術を趣味とする池田市民のなかに、先の芸術家たちと同じ思いが生まれたことです。昭和31年(1956)、室町の居住者を中心に芸術創作の同好会「ささなき会」が生まれ、互いの作品を持ち寄り展覧会なども開いていました。同会のメンバーをはじめ、多くの市民の間に美術協会の創設と池田市規模の展覧会開催を望む声が高まっていきました。
こうして「池田市美術展を持とう!」という趣旨のもと、昭和32年2月15日、鍋井を中心に、胡桃沢夫妻ら画家のほか、「ささなき会」メンバーの市民らが集まり、池田市美術協会が発足しました。協会は発足以降、池田市の芸術発展に寄与し、市の文化行事に参画して力をつくしました。
【池田市美術展の開催】
池田市美術協会の発足に続き、昭和32年6月に第1回「池田市美術展」が市立池田幼稚園を会場として開催されました。同展は「美術への健全な発展助言と指導育成又啓蒙」という趣旨にもとづき、公募審査制が採用されています。また、美術展の運営は、池田市美術協会と池田市で構成する、池田市美術展委員会を設置して行いました。
ちなみに第1回審査員には鍋井克之、胡桃沢源人、森本健二、融紅鷥、小西謙三、古家新、城口幸男が委嘱されています。
【池田市美術展の展開】
昭和44年(1969)の第10回からは、鍋井記念賞(鍋井賞)が設けられました。関西画壇の重鎮であった鍋井の名を冠したこの賞は、今でも洋画家にとって特別な賞とされています。
池田市美術展の会場は、第2回からは池田市中央公民館で行われています。それ以降は同47、48年に建替えにともない、呉服小学校などへ移動することがありましたが、基本的には公民館で行われていました。
同展は、はじめ絵画の部しか設けられていませんでしたが、第20回からは書、第30回からは彫塑と写真、第37回から工芸の部が加えられ、合わせて5部門で構成されるようになりました。現在では、池田市だけでなく近隣からも作品を寄せられるような、北摂を代表する公募展に成長しています。
↓「スペイン・トレド サンマルタン橋」 平通武男(1973年制作)
↓「おしどり」 融紅鷥(1976年制作)
↓「冬の猪名川」 城口幸男(1977年制作)
↓「裳」 水嶋山耀(1971年制作)
↓「捨てられた魚」 山本直治(1979年制作)
↓「壁 VENEZIA」 伊藤岳
※9月開催される池田市美術展は、是非観に行こうと思っています。
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◎昨日の阪神タイガース
回数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) ナゴヤドーム、 18:00、 26,602人
阪神:300・002・300・・・・・・・8・・・・・・・・(9)
中日:000・000・100・・・・・・・1・・・・・・・・(5)
【本塁打】鳥谷6号3ラン(1回、雄太)
【マルチ安打】マートン2、新井貴3
【打点】鳥谷3、マートン1、新井貴2、新井良1
【盗塁】上本(1回、7回)。 【失策】伊藤、ゴメス、今成
【投手】
○藤浪 9回:5安打、13三振、2四球、1失点(7勝4敗)
●雄太 6回:7安打、4三振、2四球、5失点(3勝4敗)
※藤浪はプロ入り初完投勝利です。
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誓願寺、西見附、鍵屋資料館(枚方宿Ⅰ)、錦織3回戦進出 [歴史館・博物館]
6月27日(金) 6月7日に仕事で、大阪府枚方市に行ったついでに、「枚方宿」を散策しました。訪問した当日は、雨が降っていたので、「枚方宿」の半分程度を散策して帰りました。これから、数回に分けて「枚方宿」を紹介してまいります。
◎枚方宿(ひらかたじゅく)
東海道五十三次でしが、慶長6年(1601)徳川家康は、京から大坂までを「京街道」と称して、4つの宿場を設けました(伏見、淀、守口、枚方)。そこで東海道五十七次の56番目の宿場が「枚方宿」と呼ばれます。
もともとは文禄5年(1596)豊臣秀吉の命により、淀川左岸に堤防が整備され(文禄堤)大坂京橋から京都伏見に大坂街道(京街道)として使われたのが始まりです。
京都と大坂のほぼ中間にあり、交通の要衝として栄えました。陸の街道だけでなく、淀川を利用した水上交通の中継港としても繁栄しました。
東見附から西見附まで、東西1447m、道幅4.5m、北側の淀川と南側の枚方丘陵の挟まれた宿場でした。
明治時代になり蒸気船の登場、明治6年(1876)JR京都線の開通、明治43年(1910)京阪電車の開通と続き、淀川水運が衰退していきました。
この「枚方宿」の町並みは、平成7年(1995)に枚方市の歴史街道モデル事業地域に指定されました。
車を枚方公園駅近くのパーキングに入れ、駅前から散策を始めました。
↓京阪「枚方公園駅」前です。
↑宿場の雰囲気を出していますね。私は小学3年生まで、この駅の近くに住んでいたので懐かしいです。
◎誓願寺(せいがんじ)
住所:大阪府枚方市伊加賀本町5-8
電話:072-841-2976
宗派:浄土真宗本願寺派。山号:竹林山。
↓外観
↓山門の前には「顕如旧跡」の石碑
↓本堂
↓鐘楼
↓鬼瓦
◎西見附
ここが「枚方宿」の西の端です。(マウスを置くと拡大します)
↓町屋カフェ「遊間」
◎鍵屋資料館(市立枚方宿)
住所:大阪府枚方市堤町10-27
電話:072-843-5128
入館料:大人200円。休館日:火曜日。
http://kagiya.hirakata-kanko.org/
京街道の要衝地の枚方宿の宿屋でした。近年は料理旅館・料亭として営業していましたが、平成9年廃業しました。江戸時代後期の町屋構造をよく残した歴史的建造物であったので、平成9年枚方市の有形文化財に指定され、平成13年に市立枚方宿鍵屋資料館として開館した。
【鍵屋主屋】
「鍵屋」は三十石船の船持ちの宿として栄えました。その主屋を解体修理し、江戸時代の姿に復元しています。
【別棟展示コーナー】
宿場に残された古文書や民具、発掘調査の出土品などを展示。くらわんか舟・三十石船などの模型や映像も使って、枚方宿や淀川舟運の歴史を紹介しています。
↓外観
↓正面入口
↓説明板(マウスを置くと拡大します)
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◎2014FIFAワールドカップ・昨日の結果
【グループE】
スイス 3-0 ホンジュラス
フランス 0-0 エクアドル
【グループF】
アルゼンチン 3-2 ナイジェリア
ボスニア・ヘルツェゴビナ 3-1 イラン
※グループEの1位はフランス、2位はスイスで、決勝トーナメントへ進出。
※グループFの1位はアルゼンチン、2位はナイジェリアで、決勝トーナメント進出。
【決勝トーナメント1回戦】
フランス 対 ナイジェリア
アルゼンチン 対 スイス
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◎ウィンブルドン2回戦・錦織快勝
○錦織 圭 6-3、6-2、6-1 ●デニス・クドラ
錦織は、今大会3年連続3回戦進出を決めました。
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◎枚方宿(ひらかたじゅく)
東海道五十三次でしが、慶長6年(1601)徳川家康は、京から大坂までを「京街道」と称して、4つの宿場を設けました(伏見、淀、守口、枚方)。そこで東海道五十七次の56番目の宿場が「枚方宿」と呼ばれます。
もともとは文禄5年(1596)豊臣秀吉の命により、淀川左岸に堤防が整備され(文禄堤)大坂京橋から京都伏見に大坂街道(京街道)として使われたのが始まりです。
京都と大坂のほぼ中間にあり、交通の要衝として栄えました。陸の街道だけでなく、淀川を利用した水上交通の中継港としても繁栄しました。
東見附から西見附まで、東西1447m、道幅4.5m、北側の淀川と南側の枚方丘陵の挟まれた宿場でした。
明治時代になり蒸気船の登場、明治6年(1876)JR京都線の開通、明治43年(1910)京阪電車の開通と続き、淀川水運が衰退していきました。
この「枚方宿」の町並みは、平成7年(1995)に枚方市の歴史街道モデル事業地域に指定されました。
車を枚方公園駅近くのパーキングに入れ、駅前から散策を始めました。
↓京阪「枚方公園駅」前です。
↑宿場の雰囲気を出していますね。私は小学3年生まで、この駅の近くに住んでいたので懐かしいです。
◎誓願寺(せいがんじ)
住所:大阪府枚方市伊加賀本町5-8
電話:072-841-2976
宗派:浄土真宗本願寺派。山号:竹林山。
↓外観
↓山門の前には「顕如旧跡」の石碑
↓本堂
↓鐘楼
↓鬼瓦
◎西見附
ここが「枚方宿」の西の端です。(マウスを置くと拡大します)
↓町屋カフェ「遊間」
◎鍵屋資料館(市立枚方宿)
住所:大阪府枚方市堤町10-27
電話:072-843-5128
入館料:大人200円。休館日:火曜日。
http://kagiya.hirakata-kanko.org/
京街道の要衝地の枚方宿の宿屋でした。近年は料理旅館・料亭として営業していましたが、平成9年廃業しました。江戸時代後期の町屋構造をよく残した歴史的建造物であったので、平成9年枚方市の有形文化財に指定され、平成13年に市立枚方宿鍵屋資料館として開館した。
【鍵屋主屋】
「鍵屋」は三十石船の船持ちの宿として栄えました。その主屋を解体修理し、江戸時代の姿に復元しています。
【別棟展示コーナー】
宿場に残された古文書や民具、発掘調査の出土品などを展示。くらわんか舟・三十石船などの模型や映像も使って、枚方宿や淀川舟運の歴史を紹介しています。
↓外観
↓正面入口
↓説明板(マウスを置くと拡大します)
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◎2014FIFAワールドカップ・昨日の結果
【グループE】
スイス 3-0 ホンジュラス
フランス 0-0 エクアドル
【グループF】
アルゼンチン 3-2 ナイジェリア
ボスニア・ヘルツェゴビナ 3-1 イラン
※グループEの1位はフランス、2位はスイスで、決勝トーナメントへ進出。
※グループFの1位はアルゼンチン、2位はナイジェリアで、決勝トーナメント進出。
【決勝トーナメント1回戦】
フランス 対 ナイジェリア
アルゼンチン 対 スイス
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◎ウィンブルドン2回戦・錦織快勝
○錦織 圭 6-3、6-2、6-1 ●デニス・クドラ
錦織は、今大会3年連続3回戦進出を決めました。
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茨木市立文化財資料館「中川清秀と中川氏」展 [歴史館・博物館]
4月8日(火) 3月15日に訪れた「元茨木川緑地南部周辺散策」の記事の最終回です。
◎茨木市立文化財資料館
住所:大阪府茨木市東奈良3-12-18
電話:072-634ー3433
入館料:無料。休館日:火曜日
開館:昭和59年3月30日
ロビー展示:「ちょっと昔のいばらき展」(1/8~3/24)写真パネルや民具を展示。
常設展示:旧石器時代から現代までの茨木の歴史を約700点展示(今回紹介は割愛)
特別展示:第15回企画展「茨木城主・中川清秀と中川氏」(1/6~3/17)
↓資料館の遠景
↓資料館の正面
★中川清秀と中川氏
【1.中川清秀の誕生】
中川清秀は天文21年(1542)、摂津国中河原村(現在の茨木市中河原町)で生まれたと伝わっています。当時、摂津には伊丹氏、池田氏、茨木氏などの有力な国人がいました。中川清秀は、そのなかの池田氏に仕えていました。
摂津は三好氏の影響が強かったが、三好一族を母にもつ池田長正から勝正への代替わり、三好三人衆と松永久秀の内紛による三好政権の弱体化の結果、摂津国人が自立、摂津の支配を巡り、争いが起こります。永禄11年(1568)8月、伊丹・茨木氏と池田氏の間でおこった猪名寺(伊丹市)の合戦です。
しかし、その1ヵ月後、上洛を果たした織田信長が摂津を攻略します。信長は芥川城に和田惟政を入れた以外は、在地の国人の支配関係をそのまま承認します。西摂に池田勝正、伊丹親興、東摂に和田惟政を配置した、いわゆる摂津三守護です。信長による摂津支配の始まりです。
【2.白井河原の合戦と中川清秀の活躍】
信長による摂津支配は在地の国人の支配関係をそのまま追認しただけだったことから、すぐにほころびをみせ始めます。いわゆる摂津三守護(池田勝正・伊丹親興・和田惟政)のうち、中川清秀が仕えていた池田氏では元亀元年(1570)、池田二十一人衆の荒木村重や中川清秀が池田勝正を追放、池田知正を擁立し、信長と戦っていた三好三人衆に寝返ります。
その翌年の元亀2年(1571)には、池田方と信長方が摂津国白井河原(茨木市)で激突します。池田方の荒木村重・中川清秀と信長方の和田惟政が戦ったこの合戦は池田方の勝利となり、清秀は敵将和田惟政を討つ武勲をあげます。この勝利で勢いにのった荒木村重らは茨木城も攻略します。その6年後の天正5年(1577)、中川清秀は新庄城(大阪市東淀川区)から茨木城へと移ります。茨木城主中川清秀の誕生です。
【3.茨木城と中川清秀】
天正5年(1577)中川清秀の入城後、茨木城は拡張整備が進んだとされており、中川氏が去る天正13年(1585)までの間に、惣構えをもつ城下町に整備されたと考えられています。
中川清秀以後は、豊臣秀吉の代官、片桐氏、徳川家康の代官を経て、元和元年(1615)の一国一城令を受け、廃城となります。
茨木遺跡の発掘調査で、当時の様子が徐々に明らかになりつつあります。とりわけ注目を集めたのが、平成18年の茨木城東堀の推定地の調査です。流路が見つかり、その中からは江戸時代初期の陶磁器と共に、筬欄間などの建具がまとまって出土しました。筬欄間は格式高いものであることから、城関連の建物や有力寺院のものであった可能性が考えられています。
また、茨木神社には、当時、中川清秀がだした制札案がのこされています。
【4.賤ヶ岳の合戦と中川清秀の死】
荒木村重が池田氏から自立した後は、中川清秀は荒木村重の下につきます。その荒木村重は元亀4年(1573)信長に仕えるようになり、摂津国を任されます。しかし、天正6年(1578)荒木村重は信長に謀反します。中川清秀は一度は荒木村重につくものの、義弟である古田重然(織部)の説得により、信長方につき、荒木村重の居城・有岡城(伊丹市)攻めに参加します。その後も信長配下として活躍、天正10年(1582)の本能寺の変以後は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)につき、明智光秀との山崎の合戦では高山右近と共に先陣をつとめ活躍します。
梅林寺には、本能寺の変を秀吉に通報した中川清秀に対しての返答の書状が残されています。内容は、信長が無事であるという偽情報であり、中川清秀を味方に引き込むための秀吉の情報戦略がうかがわれます。
清洲会議以後、柴田勝家と秀吉の対立は激しくなり、天正11年(1583)賤ヶ岳で両者は激突します。中川清秀もこの戦いに参加し、大岩山に布陣します。戦いは秀吉方の勝利となりますが、中川清秀は戦端を開くきっかけとなった勝家方の佐久間盛政の急襲を受け、奮闘するも戦死します。その遺髪は持ち帰られ、梅林寺に葬られました。
↑大岩山本陣図(竹田市立歴史資料館蔵)
【5.中川清秀の後裔】
中川清秀の死後、その長男である中川秀政が跡を継ぎ、茨木城主となりますが、天正13年(1585)転封され、播磨国三木城主となります。
天正20年(1592)には、その秀政が朝鮮出兵時、番所見廻りの際に待ち伏せに会い、死亡します。父・清秀が賤ヶ岳の合戦で秀吉方につき討死したことに免じて、弟・秀成が跡目を継ぎます。(「中川氏御年譜」によると、実は見廻り中ではなく、鷹狩り中に襲撃を受け死亡)
中川秀成は三木城主となりますが、文禄2年(1593)に豊後国岡へ転封を命ぜられます。慶長3年(1598)に、中川秀成が年貢・夫役について領民間の負担を均等にしようとした掟書の写しが残されています。
中川秀成は、関ヶ原の合戦で徳川方につき、その後、中川氏は岡藩主として繁栄しながら代々続き、幕末を迎えることになります。(以上は、本企画展のパンフレットより転載)
↑中川秀成掟書写(竹田市立歴史資料館蔵)
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◎ダルビッシュ史上最速メジャー奪500三振
マー君もダルビッシュの記録に挑戦して欲しいですね。
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◎茨木市立文化財資料館
住所:大阪府茨木市東奈良3-12-18
電話:072-634ー3433
入館料:無料。休館日:火曜日
開館:昭和59年3月30日
ロビー展示:「ちょっと昔のいばらき展」(1/8~3/24)写真パネルや民具を展示。
常設展示:旧石器時代から現代までの茨木の歴史を約700点展示(今回紹介は割愛)
特別展示:第15回企画展「茨木城主・中川清秀と中川氏」(1/6~3/17)
↓資料館の遠景
↓資料館の正面
★中川清秀と中川氏
【1.中川清秀の誕生】
中川清秀は天文21年(1542)、摂津国中河原村(現在の茨木市中河原町)で生まれたと伝わっています。当時、摂津には伊丹氏、池田氏、茨木氏などの有力な国人がいました。中川清秀は、そのなかの池田氏に仕えていました。
摂津は三好氏の影響が強かったが、三好一族を母にもつ池田長正から勝正への代替わり、三好三人衆と松永久秀の内紛による三好政権の弱体化の結果、摂津国人が自立、摂津の支配を巡り、争いが起こります。永禄11年(1568)8月、伊丹・茨木氏と池田氏の間でおこった猪名寺(伊丹市)の合戦です。
しかし、その1ヵ月後、上洛を果たした織田信長が摂津を攻略します。信長は芥川城に和田惟政を入れた以外は、在地の国人の支配関係をそのまま承認します。西摂に池田勝正、伊丹親興、東摂に和田惟政を配置した、いわゆる摂津三守護です。信長による摂津支配の始まりです。
【2.白井河原の合戦と中川清秀の活躍】
信長による摂津支配は在地の国人の支配関係をそのまま追認しただけだったことから、すぐにほころびをみせ始めます。いわゆる摂津三守護(池田勝正・伊丹親興・和田惟政)のうち、中川清秀が仕えていた池田氏では元亀元年(1570)、池田二十一人衆の荒木村重や中川清秀が池田勝正を追放、池田知正を擁立し、信長と戦っていた三好三人衆に寝返ります。
その翌年の元亀2年(1571)には、池田方と信長方が摂津国白井河原(茨木市)で激突します。池田方の荒木村重・中川清秀と信長方の和田惟政が戦ったこの合戦は池田方の勝利となり、清秀は敵将和田惟政を討つ武勲をあげます。この勝利で勢いにのった荒木村重らは茨木城も攻略します。その6年後の天正5年(1577)、中川清秀は新庄城(大阪市東淀川区)から茨木城へと移ります。茨木城主中川清秀の誕生です。
【3.茨木城と中川清秀】
天正5年(1577)中川清秀の入城後、茨木城は拡張整備が進んだとされており、中川氏が去る天正13年(1585)までの間に、惣構えをもつ城下町に整備されたと考えられています。
中川清秀以後は、豊臣秀吉の代官、片桐氏、徳川家康の代官を経て、元和元年(1615)の一国一城令を受け、廃城となります。
茨木遺跡の発掘調査で、当時の様子が徐々に明らかになりつつあります。とりわけ注目を集めたのが、平成18年の茨木城東堀の推定地の調査です。流路が見つかり、その中からは江戸時代初期の陶磁器と共に、筬欄間などの建具がまとまって出土しました。筬欄間は格式高いものであることから、城関連の建物や有力寺院のものであった可能性が考えられています。
また、茨木神社には、当時、中川清秀がだした制札案がのこされています。
【4.賤ヶ岳の合戦と中川清秀の死】
荒木村重が池田氏から自立した後は、中川清秀は荒木村重の下につきます。その荒木村重は元亀4年(1573)信長に仕えるようになり、摂津国を任されます。しかし、天正6年(1578)荒木村重は信長に謀反します。中川清秀は一度は荒木村重につくものの、義弟である古田重然(織部)の説得により、信長方につき、荒木村重の居城・有岡城(伊丹市)攻めに参加します。その後も信長配下として活躍、天正10年(1582)の本能寺の変以後は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)につき、明智光秀との山崎の合戦では高山右近と共に先陣をつとめ活躍します。
梅林寺には、本能寺の変を秀吉に通報した中川清秀に対しての返答の書状が残されています。内容は、信長が無事であるという偽情報であり、中川清秀を味方に引き込むための秀吉の情報戦略がうかがわれます。
清洲会議以後、柴田勝家と秀吉の対立は激しくなり、天正11年(1583)賤ヶ岳で両者は激突します。中川清秀もこの戦いに参加し、大岩山に布陣します。戦いは秀吉方の勝利となりますが、中川清秀は戦端を開くきっかけとなった勝家方の佐久間盛政の急襲を受け、奮闘するも戦死します。その遺髪は持ち帰られ、梅林寺に葬られました。
↑大岩山本陣図(竹田市立歴史資料館蔵)
【5.中川清秀の後裔】
中川清秀の死後、その長男である中川秀政が跡を継ぎ、茨木城主となりますが、天正13年(1585)転封され、播磨国三木城主となります。
天正20年(1592)には、その秀政が朝鮮出兵時、番所見廻りの際に待ち伏せに会い、死亡します。父・清秀が賤ヶ岳の合戦で秀吉方につき討死したことに免じて、弟・秀成が跡目を継ぎます。(「中川氏御年譜」によると、実は見廻り中ではなく、鷹狩り中に襲撃を受け死亡)
中川秀成は三木城主となりますが、文禄2年(1593)に豊後国岡へ転封を命ぜられます。慶長3年(1598)に、中川秀成が年貢・夫役について領民間の負担を均等にしようとした掟書の写しが残されています。
中川秀成は、関ヶ原の合戦で徳川方につき、その後、中川氏は岡藩主として繁栄しながら代々続き、幕末を迎えることになります。(以上は、本企画展のパンフレットより転載)
↑中川秀成掟書写(竹田市立歴史資料館蔵)
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◎ダルビッシュ史上最速メジャー奪500三振
マー君もダルビッシュの記録に挑戦して欲しいですね。
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