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伊丹坂・伝和泉式部の墓(旧西国街道・伊丹市) [西国街道]

7月15日(水)      先日、スマイル阪神(卸売市場)で妻が買物している間に、私は「はな」を連れて周辺を散歩しました。産業道路(県道13号)が旧西国街道と交差しています。小高い森があり、西国街道を上って行きました。

急勾配の伊丹坂は、寛政10年(1798)の『摂津名所図会(ずえ)』にも描かれた、西国街道の難所であった。坂の上の南側(春日丘6丁目)には、「伝・和泉式部の墓」があります。

↓伊丹坂
西国3・伊丹坂.jpg

↓西国街道の道標
西国1・伊丹坂.jpg

↓道標の裏には、「伊丹坂」が表示
西国2・伊丹坂.jpg

↓伝和泉式部の墓の道案内
西国4・和泉式部.jpg

↓西国街道より道を鋭角に登る
西国5.jpg

↓地蔵堂もあった
西国6.jpg

↓住宅地を進み、左折すると、伝和泉式部の看板
西国7・.jpg

◎伝 和泉式部の墓
場所:兵庫県伊丹市春日丘6丁目(伊丹坂上)
http://www.city.itami.lg.jp/ITAMI_BENRI/SISETU_KIKAN/REKISI/1392277997602.html

旧西国街道の伊丹坂に臨む崖上の小堂内にある、高さ152センチメートルの五輪塔。火輪・地輪を欠き、塔身と一石彫成の請花(うけばな)・宝珠(ほうじゅ)のみが残っています。構造形式は鎌倉調で、1300年代初期の造立と推定されます。平成12年に市指定文化財になりました。

和泉式部は平安時代の女流歌人で、「和泉式部日記」の作者として有名です。「津の国のこや(昆陽)とも人をいふへきにひまこそなけれ芦の八重葺(やえぶき)」という歌を詠んでいます。

西国8・和泉式部.jpg
西国9.jpg
↓説明板
西国10・伝和泉式部の墓.jpg

↓近くに、八幡神社跡地の石碑
西国11・八幡神社跡地.jpg

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◎昨日の阪神タイガース

回数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) 甲子園、 18:00、 38,149人
広島:000・000・110・・・・・・・2・・・・・・・・(9)
阪神:101・030・00×・・・・・・・5・・・・・・・・(9)

【マルチ安打】福留3
【打点】鳥谷1、マートン2、上本2
【投手】
能見   7回:6安打、4三振、2四球、1失点(6勝9敗)
・福原   1回:2安打、1三振、無四球、1失点
S 呉   1回:1安打、2三振、無四球、無失点(2勝2敗24S)
●野村4回3分の2:8安打、4三振、4四球、5失点(4勝6敗)

※阪神は5割復帰。本日も勝ってオールスター休暇を迎えて欲しいですね。

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宮田春日神社(大阪府高槻市) [西国街道]

2月26日(水)       前回まで2月5日に訪れた茨木市の西国街道の散策記事を連載しました。その後、西国街道を車で東進し、高槻市内に入りました。巡礼橋を右折した直ぐの所に神社がありましたので立ち寄りました。そこは「春日神社」です。高槻市内には、春日神社が8つもあります。

◎春日神社(宮田)
住所:大阪府高槻市宮田町3-5-1
電話:072-643-7778
創建:不詳。社格:村社。祭神:天児屋根命、武甕槌命、経津主命

↓正面
宮田春日神社1.jpg

↓鳥居
宮田春日神社2・鳥居.jpg

宮田春日神社3・由来碑.jpg

↓拝殿
宮田春日神社4・拝殿.jpg

↓本殿
宮田春日神社5・本殿.jpg
300余年の古い歴史を持つ神社だが、社殿は朽ち果て、昭和55年に再建された。寄付に頼らず氏子一同で、新たな社殿を完成させた。大阪府内で、いまや唯一の宮大工となった「金剛組」が設計施工。社殿のそばには、高槻市の古木に指定されているヒノキの大木がある。

↓手水舎
宮田春日神社6・手水舎.jpg

↓社標                            ↓拝殿の扁額
宮田春日神社7・社標.jpg宮田春日神社8・扁額.jpg

↓境内社の「白玉稲荷神社」
宮田春日神社9・白玉社.jpg

↓春日神社の外周
宮田春日神社10・外周.jpg
この辺一帯は、「宮田遺跡」でした。

↓説明板

宮田遺跡は、女瀬川の自然堤防上にある。ここには、平安時代後期から鎌倉時代に営まれた農村があった。 春日神社の東側では、条理に沿った屋敷地がみつかっている。それぞれは溝や柵で約20m四方に区画されており、それが東西にいくつか並んで、ひとつの村をつくっていたと考えられる。
 東の屋敷地は、中庭を囲んで母屋と副屋、井戸が配置されていた。西隣は、柵でさらに区切られ、各2,3棟の小さい建物と井戸があった。これらの屋敷にはひとつずつ、初代の先祖を祀る特別な墓(屋敷墓)がある。 また屋敷や川からは、多くの土器や陶磁器、木製品が出土した。椀や皿、しゃもじ、下駄、織物やムシロ編みの道具などに、当時の生活がしのばれる。それらの多くは商人を通じて手に入れたと思われ、なかには中国製の青磁や白磁などの貿易品も含まれていた。
宮田遺跡は、発掘調査によって、中世の農村のなりたちや暮らしが具体的に復元される貴重な集落遺跡である。


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◎アジア・チャンピオンズリ-グ(ACL)開幕

日本からは、サンフレッチェ広島、セレッソ大阪、横浜マリノス、川崎フロンターレの4チームです。
ここ5年間、日本の優勝はありません。Jリーグと重なるので、日本はあまり力を入れてないようですね。


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太田神社・継体天皇稜(大阪府茨木市)、 奈良くるみツアー初優勝 [西国街道]

2月25日(火)        茨木市の西国街道を散策した記事の最終回です。(2月5日撮影)
太田東芝町交差点を渡って東進すると、直ぐに左手に「太田神社」への看板があります。左折して真っ直ぐ上り坂を行くと、「太田神社」の入口に突き当たります。

◎太田神社(おおた)
住所:大阪府茨木市太田3-15-1
主祭神:天照皇大神、素盞鳴尊、豊受皇大神。
創建:不詳。社格等:式内社、旧村社

当社の創建は明らかでない。当社は太田茶臼山古墳(継体天皇三島藍野陵)に隣接して鎮座しており、当社の創建以前から古墳は存在したと見られている。現在の考古学では真の継体天皇陵は北東の今城塚古墳とされており、太田茶臼山古墳の真の被葬者が誰かという問題も含め当社との関係が指摘される。
 また、『新撰姓氏録』に記載される「中臣大田連」の本貫地と見られ、当氏族による創祀も指摘される。『新撰姓氏録』では中臣大田連について「天児屋根命の十三世孫・御身宿禰の後」と記載するが、これを『松尾社家系図』の「御身足尼命」(ただし十四世孫と記載)に比定し、その子の「太田彦命」が中臣大田連につながるという説もある。
 そのほか、『播磨国風土記』揖保郡大田里条には「呉の勝(くれのすぐり)が韓国より紀伊国名草郡大田村に移り、分かれて摂津国三島賀美郡大田村に移った」という記述がある。当地は通説では島下郡の所属と見られ、三島賀美郡(島上郡)の記述には反するが、「勝(すぐり)」のカバネを有することから百済からの移住と考えられている。これより、三島に中臣氏が進出するにあたり、これらの「呉の勝」末裔と融合して中臣大田連が形成され、氏神として当社が創祀されたという説が提唱されている。

↓太田神社の入口
西国55・太田神社遠景.jpg

↓鳥居
西国56・太田鳥居.jpg

↓参道
西国57・参道.jpg

↓手水舎
西国58・手水舎.jpg

↓拝殿
西国59・拝殿.jpg

↓狛犬
西国63.jpg西国64・狛犬.jpg

↓稲荷神社の鳥居(境内社)
西国60・境内社鳥居.jpg
↓稲荷神社(祭神:宇賀御魂神)
西国61・境内社.jpg

↓本殿
西国62・本殿.jpg

↓太田3丁目付近の西国街道(左端に見えるのが継体天皇陵の駐車場入口)
西国65・街道.jpg

◎継体天皇三島藍野陵太田茶臼山古墳
住所:大阪府茨木市太田3丁目
紀元後5世紀頃に造られた前方後円墳で、第26代継体天皇陵であるともいわれているが、高槻市郡家新町の今城塚古墳が本当の継体天皇陵というのが有力である。しかし、宮内庁はこれを正式には認めていない。

↓継体天皇陵入口
西国66・継体天皇陵入口.jpg

↓宮内庁の看板
西国67・看板.jpg

↓松林の参道
西国68・松林.jpg

↓継体天皇三島藍野陵
西国69・陵.jpg
西国70.jpg
↑後方に見えるのが「太田茶臼山古墳」。
太田茶臼山古墳』は、全長226m、前方部幅147m、後円部直径135m、後円部高19mの前方後円墳で、古事記に“三島之藍御陵”・日本書紀に“藍野陵”・延喜式に“三島藍野陵 在摂津国嶋上郡”とある継体天皇の陵とされてきた。
 しかし、当地の所在地が嶋下郡であり延喜式にいう島上郡ではないこと、その型式や陪塚出土の埴輪の編年などから5世紀中葉から後葉の造成とみなされること、史書にある継体の没年(古事記:527年、書紀:531)と食い違うことから、当古墳を継体陵とするのは間違いで、本来の継体の陵は東方1.5kmの今城塚古墳(高槻市郡家、全長190m)というのが学会の定説となっている。
継体天皇については、こちらのWikiサイトをご覧ください。
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◎奈良くるみ(22歳)がツアー初優勝

リオ・オープンで、第5シードの奈良くるみ(世界ランク48位)が、「6-1、4-6、6-1」で第1シードのクララ・ザコパロバ(チェコ、世界ランク32位)に勝利し、ツアー初勝利を飾りました。


女子シングルスで日本勢が優勝したのは、2009年9月に韓国オープンを制したクルム伊達公子以来で、5年ぶり8人目。
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太田一里塚・安楽寺(大阪府茨木市) [西国街道]

2月23日(日)      西国街道の記事を連載中です。名神高速道路の下をくぐって、安威川に架かる太田橋を渡ると、左側に「太田一里塚」跡があります。

一里塚
一里塚は、秀吉が街道の距離を明確にするために一里(約4km)毎に作らせたのが始まりです。一里塚には小さな祠と、ムクノキがあるのが一般的です。

◎太田一里塚
西国街道の太田橋の東詰めにあることから、以前は一里塚として説明板もあったようです。しかし現在は、その説明板はなく、西国街道の説明板に変わっています。「一里塚」でないという説が有力なようです。

↓西国街道に面した外観
西国40・太田一里塚.jpg
西国街道】↑この説明板
 西国街道は、古代から京都と西国を結ぶ重要路であり、江戸時代には幕府が直接管理する五街道(東海道・中仙道・日光道中・奥州道中・甲州道中)に接続する脇街道ですが、参勤制度によって多くの西国大名が大坂と京をさけて、江戸への往来に利用した街道です。
 文化4年(1807)に完成した「五街道其他分間見延絵図」によると、京から西国への道は、伏見から分かれて、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽・西宮の各宿を経て、中国道に続くまでを「山崎道」とし、これがいわゆる「西国街道」です。
 茨木市内をほぼ東西に走るこの街道は、高槻市土室町から茨木市高田町に入って西進し、摂州郡山宿本陣(椿本陣)の前を通って、西豊川町から箕面市小野原へと通じています。


↓正面入口
西国41・入口.jpg

↓拝殿?
西国42・拝殿.jpg
↑この建物の裏に、老人クラブの集会所があります。

↓手水舎
西国43・手水舎.jpg

↓茨木市の保存樹の看板
西国44・保存樹.jpg
↑「ムクノキ」は朽ちて横たわっています。

↓小さな祠と保存樹
西国45・保存樹と祠.jpg

↓太田橋の石碑
西国46・太田橋石碑.jpg

↓左奥にある地蔵
西国47・太田一里塚地蔵.jpg

↓太田1丁目付近の西国街道
西国48・太田1丁目.jpg

西国街道より一筋外れた所に「安楽寺」があります。
◎安楽寺(あんらくじ)
住所:大阪府茨木市太田1-14-6
電話:072-622-4797
山号:清浄山。宗派:浄土真宗本願寺派
創建:元亀元年(1570)。開創:慧光。本尊:阿弥陀如来立像
http://www.ibaraki-anrakuji.com/about.html

茨木には当清淨山安楽寺と富楽山安楽寺(沢良宜)、水江山安楽寺(野々宮)と三つの安楽寺がある。安楽寺と称する寺名は全国各地で多く見受けられる。この茨木の三つの安楽寺のうち、この安楽寺が他の寺より凡そ百年近く前に創建された。
文明7年(1475年)、太田村から安威川を渡った西隣りの十日市村に、真光山善永寺が創建された。太田村の住人はこの善永寺に詣でていたが、太田村にも寺が必要との願いで元亀元年(1570年)3月、僧慧光(えこう)が修養道場として当寺を開き、教化(きょうげ)を続けた。そして、延宝2年(1674年)本山に寺号の下付を願い出た。その結果、本山から『清淨山 安楽寺』が下された。その後、享保14年(1729年)7月本堂焼失。享保18年(1733年)、本願寺第十五世門主住如の直弟子である賢鱗が檀家の協力をえて現在の本堂を再建。
本堂の横にある銀杏の古木は樹齢不詳であるが、寺宝に等しい存在として大切にされてきた。この銀杏からたくさんの銀杏の実が収穫でき、秋の法要等のお供えとし、門信徒に配られていた。
春は永代経法要、秋には報恩講法要が営まれ、専門の説教師が招かれ説法が行われている。その説法を聞くため門信徒衆が本堂一杯になるほど参列するとのこと。大晦日は、除夜の鐘が参拝者に解放され、自由に突くことができる。そして、その参拝者に年越し蕎麦が施され、檀家以外の多くの地元の老若男女が越年詣でに集まり、今では、太田界隈の住人から『年越しの恒例の風物詩』として人気スポットの一つとなっている。

↓安楽寺の駐車場からの外観
西国49・安楽寺の駐車場.jpg

↓本堂
西国50・安楽寺本堂.jpg
↑桁行5間、梁間5間、入母屋造、本瓦葺。享保18年(1733)再建、享保20年とも言われている。

↓消火ポンプ(水龍雲)
西国51・消火ポンプ水龍雲.jpg

↓梵鐘
西国52・梵鐘.jpg
↑元の梵鐘は、昭和19年に供出された。

↓鐘楼
西国53・鐘楼.jpg
↑桁行1間、梁間1間、切妻造、桟瓦葺。

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◎オープン戦が始まる

昨日より、いよいよオープン戦が始まりました。今年こそ、阪神タイガースに頑張って欲しいです。
昨日の初戦は、広島と対戦し、「2-2」の引分でした。特に目立った選手は、2番手に登板した秋山投手は、4回1安打無失点と好投しました。打撃の方では、伊藤隼と西田が2安打マルチでした。

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阿為神社御旅所・善永寺(大阪府茨木市)、真央SP16位でメダル絶望 [西国街道]

2月21日(金)     茨木市内の「西国街道」散策記事の続きです。

↓西国街道の現在の街並み(耳原3丁目)
西国16・旧西国街道.jpg

◎阿為神社御旅所(あいじんじゃおたびしょ)

住所:大阪府茨木市耳原3-1-5

↓鳥居
西国10・阿為鳥居.jpg
↑鳥居の扁額には「阿為神社」と書かれています。

↓説明板(マウスを置くと拡大します)


↓拝殿
西国12・阿為社.jpg

↓狛犬
西国13・阿為狛犬.jpg西国14・.jpg

↓先代の狛犬の墓石
西国15.jpg

◎善永寺(ぜんえいじ)

住所:大阪府茨木市十日市町4-6
電話:072-641-1366
山号:真光山。宗派:浄土真宗本願寺派
創建:文明7年(1475)。開基:教忍(佐藤安良)。本尊:阿弥陀如来立像。

『願はくは 花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)の頃』
この歌は、こよなく桜を愛した西行法師が亡くなる十数年前に願いを込めて詠んだ。その願いがかない、春爛漫花の頃、大阪府南河内郡の山里にある弘川寺の裏山に西行が結んだ庵で、春を満悦しながらこの世を去った。
 西行法師は元永元年(1118 年)、現在和歌山県那賀郡において、武家の家に生まれた。幼い頃に父が亡くなり、十七歳で父の後を継ぎ皇室の警備兵である兵衛尉(ひょうえのじょう)に就任した。そのとき、西行は佐藤清(さとう のりきよ)と名乗り、御所の北側を警護する院直属の名誉ある精鋭部隊である官位の【北面の武士】に選ばれて、平清盛と共に鳥羽天皇(第74代天皇 在位1107 年~1123 年)をお守りしていた。
 その当時、武士社会では頻繁に歌会が行われ、この歌会で西行の歌は常に高い評価を得ていた。また、武士として備えなければならない術も一流で、特に、疾走する馬から矢で的を射る流鏑馬(やぶさめ)は達人であった。それに加え、上層階級で行われていた【蹴鞠(けまり)】は名人と称され、今でいうスポーツ万能選手であった。
 この佐藤義清の祖先は藤原鎌足であり裕福な家系で、素晴らしい妻子ある家庭のもと、文武両道に秀で、北面の武士という要職に就き前途洋々であった。しかし、22 歳のとき、その武士世界を捨て、妻子と別れ全てを捨てて、保延6 年(1140 年)、人生に無常を感じ出家をした。そして、阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから法名を『西行』と名乗った。
 西行はどの宗派にも属さず、ただ思い至った山里で僧庵を結び、自分の心と向き合い自然世界に悟りを求め、和歌にその心を委ねた。それは、名声も地位も求めない隠棲の日々であった。そして、藤原鎌足を先祖とする西行は、鎌足が葬られているという茨木の安威村にある『大織冠山(たいしょくかんやま)』の麓に僧庵を結んだ。
 時代は過ぎ、安威の住人であった、佐藤安良(あんりょう)が本願寺第八世蓮如上人を拝し感銘を受け剃髪のうえ帰依し、法名を教忍(きょうにん)と名乗り直弟子となった。文明7 年(1475年)3 月、教忍は安威村の大織冠山の麓にある西行法師の僧庵跡と伝わる場所に善永寺を創建した。教忍の俗名は佐藤安良で、西行法師の俗名も佐藤義清である事から、教忍は西行法師の子孫と考えられている。
 享保19 年(1734 年)8 月、善永寺第五世住職祐信(ゆうしん)が、大織冠山にあった善永寺を、現在の敷地に移築再建し現在に至っている。しかし、その移築した理由原因は定かでない。
 藤原鎌足が葬られているという大織冠山を、住人は『鎌足塚』と呼び鳥居を建て『大織冠神社』として拝し信仰してきた。現在は周辺が宅地造成され住宅が建ち並び、善永寺の井戸跡地と伝えられた場所も住宅地となり、往年の形状が一切見当たらない程に変貌している。
(以上は、茨木市観光協会のサイトより)

↓善永寺の山門
西国31・善永寺山門.jpg
↑間口一間半、奥行一間。天和3年(1683)4月建立。寺伝によれば、この山門は太田城の山門を移築したと伝わる。太田城の廃城の年月は不明であるが、戦国時代の高槻芥川城と歴史を重ね合わせは、永禄11年(1568)頃まで、太田城は存在したことになる。太田城は廃城になったが山門だけが約百年存在し、それを移築したと考えられる。

↓寺標
西国32・善永寺標.jpg

↓境内の立派な松の木
西国33・善永本堂前.jpg

↓本堂
西国34・本堂.jpg
↑間口八間、奥行六間半。入母屋造、本瓦葺。棟札によれば「元文4年(1739)4月再建、上田吉右衛門(大工)」。享保19年(1734)現在の場所に移築後、5年後に再建されている。これは安威川の氾濫により損傷し、再建されたものと考えられる。

↓本堂の扁額
西国35・本堂扁額.jpg

↓親鸞聖人像
西国36・親鸞聖人像.jpg

↓本堂屋根下にある「消防ポンプ」
西国37・善永消防ポンプ.jpg

↓鐘楼
西国38・鐘楼.jpg
↑間口二間、奥行二間。安永8年(1779)4月建立。

↓庫裡
西国39・善永庫裡.jpg

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◎ソチ五輪

●浅田真央・SPまさかの16位でメダル絶望的

1位:キム・ヨナ(23)          74.92点
2位:アデリナ・ソトニコワ(17)    74.64点
3位:カロリナ・コストナー(27)    74.12点
5位:ユリア・リプニツカヤ(15)    65.23点
8位:鈴木 明子(28)          60.97点
15位:村上 佳菜子(19)       55.60点
16位:浅田 真央(23)         55.51点

日本人3選手のSPは、三人ともミスが出た演技でした。特に酷かったのは、3つあるジャンプの全てにミスした真央ちゃんです。こんな悪い演技を見たのは久しぶりですね。彼女は今大会を集大成と言っていたので、自分自身にプレッシャーをかけ過ぎたのでしょうね。
3位との差は、18.61点あり、これをひっくり返すのは絶望的な得点差です。せめて、フリーでは、参加選手中の最高得点を出して、素敵な「真央スマイル」を見たいですね。


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安養寺・法華寺(大阪府茨木市)、スノーボート竹内智香が銀 [西国街道]

2月20日(木)      「西国街道」の茨木市域は、約5.5kmあります。このうちの耳原3丁目から東太田4丁目までを、2月5日に散策しましたので、本日より4回に分けて、掲載していきます。

↓マウスを置くと、地図が拡大します。


◎安養寺(あんようじ)
住所:大阪府茨木市耳原3-6-9
電話:072-643-7884
山号:蓮華山。院号:往生院。宗派:浄土宗
本尊:阿弥陀如来立像。創建:寛永5年(1628)。開基:茨木市安威の大念寺の専誉流念和尚。

茨木を東西に横断する歴史街道である『西国街道』に接し存在する寺院が四つあり、安養寺はその一つである。西国街道は京都の東寺が起点と言われており、西宮に至り、古代から重要な交通路として西国諸大名の参勤交代路として利用されてきた。京都で東海道に接続し、江戸と西国を結ぶ西国街道は近代まで頻繁に往来されていた。現在、この歴史の道も正式名は「市道 高田町豊川四丁目線」とネーミングされた茨木市の認定道路になっているが、地元の人達からは往時を偲び今も『西国街道』と呼び親しまれている。
 京都と西宮を結ぶこの西国街道には、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽(こや)の五つの宿があった。茨木には郡山宿本陣(通称椿の本陣)が歴史的な面影を漂わせ現存している。郡山宿本陣に伝わる古文書によれば、多くの諸大名が宿泊し、播州赤穂城主 浅野内匠守長矩も泊ったことが記されてある。また、五十六歳から没するまでの十数年、日本地図の作成のため全国を測量した伊能忠敬(1745年~1818年)も宿泊している。西国街道はまさに歴史そのもので街道にかかわる多くの昔物語が各地で伝えられている。

 この西国街道に面する安養寺は『大阪府全誌』によれば、寛永5年(1628年)10月、専誉流念(せんようりょうねん)和尚が檀家の協力を得て創建した。その他、秘話が寺史に実存すると思うが、残念ながら古文書等が存在しないので定かでない。
唯一、昔を語るものとして大永5年(1525年)名号の板碑(高さ90cm、幅30cm、側面厚司15cm)が寺院正面に存在する。前面に種字と「南無阿弥陀仏」、左右側面に「逆修善根人数十二人、大永五年乙酉二月時正日」の刻銘がある。このあたりに瑠璃光寺があったと伝えられ、古瓦や泥仏などが出土している。この板碑もその当時のものと思われる。
安養寺は正面庭には数多くの桜の木が植えられて花咲く頃はまさに極楽屏風絵を見る風景である。
(以上は茨木市観光協会サイトより)

↓安養寺の入口
西国28・安養寺入口.jpg

↓寺標
西国29・安養寺標.jpg

↓本堂
西国30・安養本堂.jpg
↑桁行三間、梁行四間。明和5年(1768)の棟札があり、大工は福井村の住吉右衛門。


◎法華寺(ほっけじ)
住所:大阪府茨木市耳原3-5-3
電話:072-643-7271
山号:妙法山。宗派:顕本法華宗(旧日蓮宗妙満寺派)
創建:慶長9年(1604)。宗祖:日蓮聖人。派祖:玄妙日什
開基:京都妙満寺の第28世蓮照院日善上人。
本尊:宗祖日蓮の大曼荼羅(釈迦・多宝如来坐像)

派祖の玄妙日什は、正和3 年(1314 年)、奥州会津黒川の生まれで19 歳のとき比叡山に登って出家し僧名を玄妙とした。以後、天台教学を学び38 歳で学頭になり、天台宗では学識の深い高僧というわれ信望を集めた。しかし、玄妙が66 歳のあるとき、日蓮聖人が著した『開目抄』『如説修行鈔』を読み感銘を受け、天台教学は「過時の教え(像法(ぞうぽう)」であると感じ改宗を決意し、日蓮法華宗に帰伏(きぶく)して名を日什と改めた。しかし、翌年には異見を生じて離脱した。その後、真間・中山門流に改宗したが、悩みに悩んで最後には「真間帰伏状」を破棄して『日什門流』を掲げ独立、明徳3 年(1392 年)2 月28 日、79歳で逝去した。その後、『日什門流』は幕藩体制に迎合しながら教勢の拡大をはかり本山妙満寺を中心に発展してきた。
 明治9 年(1876 年)、日什門流は『日蓮宗妙満寺派』と宗名を定める。22 年後の明治31年(1898 年)、『顕本法華宗』と変名。その後、身延日蓮宗に属していたが、昭和22 年(1947年)、独立し現在に至る。総本山妙満寺は京都市左京区岩倉にあり、本尊は大曼荼羅である。
 大曼荼羅とは今から二千数百年前、インドで生まれた仏陀が、雲鷲山の上で法華経を説法ほどこした。その一切経中、一番高遠深奥な教えである法華経寿量品を説いた時の説法儀式の模様をそのまま日蓮聖人が、文永10 年(1273 年)、佐渡一の谷において初めて文字で書きあらわした。これが『日蓮大聖人の佐渡始顕の御本尊』大曼荼羅本尊である。
 『顕本法華宗』の顕本とは、〝開迹顕本(かいしゃくけんぽん)〟という法華経の教えを表現した言葉からきている。その意味は「インドで入滅されたお釈迦さまは、本当は今も永遠の命を持ち続け、常に人々に慈悲の心を注いでいらっしゃる」という意味のことである。
 京都妙満寺の第二十八世蓮照院日善上人(れんしょういんにちぜんしょうにん)が西国へ布教の途中、茨木耳原村に立ち寄り説法を行った。住人で門閥家(もんばつか 家柄がよい家)の中市兵衛は、字泰芸、入蔵法師とも称されていた日善上人に深く帰依し、土地を寄進して自らが本願人となり、慶長9 年(1604 年)正月10 日、日善上人を開祖として一宇(いちう)を創建した。門閥家であった中氏は、近世天保年間(1830 年~1844 年)に滅亡し、その宅地跡は現法華寺の裏方の所にある。
 元和元年(1615 年)の頃には、ほぼ現在の寺観を形成し、明治初期までは三十番神堂、鎮守堂(土地の守護神、寺院の境内に請願した諸神)があったが、廃仏毀釈で消滅した。
(以上は茨木市観光協会サイトより)

↓法華寺の山門
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↓説明板
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↓外観
西国19・法華外観.jpg

↓山門の扁額 ↓門前の石柱
西国20・山門扁額.jpg西国21・山門石柱.jpg

↓本堂
西国22・本堂.jpg
↑間口六間、奥行七間。寄棟造り、平成4年秋に再建。

↓由来石碑
西国23・由来石碑.jpg

↓本堂の扁額
西国24・本堂扁額.jpg

↓鐘楼
西国25・法華鐘楼.jpg

↓開基上人・歴代上人の墓碑
西国26・墓所.jpg

↓庭園
西国27・法華庭園.jpg
↑樹齢350年の山茶花の老木があるらしいが、非公開とされています。

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◎ソチ五輪

★パラレル大回転で竹内智香が銀メダル

スノーボード女子パラレル大回転で、五輪4度目の挑戦の竹内智香(30)が銀メダルの快挙。
二人で並行して滑走する決勝戦の1本目は勝利し、2本目も先行していたが転倒し、惜しくも金を逃した。
五輪28・竹内.jpg五輪29・竹内.jpg

※これで日本のメダル数は7個(金1、銀4、銅2)。もう一つ女子フィギュアスケートに期待しましょう。

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