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茨木市立文化財資料館「中川清秀と中川氏」展 [歴史館・博物館]

4月8日(火)       3月15日に訪れた「元茨木川緑地南部周辺散策」の記事の最終回です。

◎茨木市立文化財資料館
住所:大阪府茨木市東奈良3-12-18
電話:072-634ー3433
入館料:無料。休館日:火曜日
開館:昭和59年3月30日
ロビー展示:「ちょっと昔のいばらき展」(1/8~3/24)写真パネルや民具を展示。
常設展示:旧石器時代から現代までの茨木の歴史を約700点展示(今回紹介は割愛)
特別展示:第15回企画展「茨木城主・中川清秀と中川氏」(1/6~3/17)

↓資料館の遠景
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↓資料館の正面
茨木文化財2.jpg

★中川清秀と中川氏
1.中川清秀の誕生
 中川清秀は天文21年(1542)、摂津国中河原村(現在の茨木市中河原町)で生まれたと伝わっています。当時、摂津には伊丹氏、池田氏、茨木氏などの有力な国人がいました。中川清秀は、そのなかの池田氏に仕えていました。
 摂津は三好氏の影響が強かったが、三好一族を母にもつ池田長正から勝正への代替わり、三好三人衆と松永久秀の内紛による三好政権の弱体化の結果、摂津国人が自立、摂津の支配を巡り、争いが起こります。永禄11年(1568)8月、伊丹・茨木氏と池田氏の間でおこった猪名寺(伊丹市)の合戦です。
 しかし、その1ヵ月後、上洛を果たした織田信長が摂津を攻略します。信長は芥川城に和田惟政を入れた以外は、在地の国人の支配関係をそのまま承認します。西摂に池田勝正、伊丹親興、東摂に和田惟政を配置した、いわゆる摂津三守護です。信長による摂津支配の始まりです。
中川1.jpg

2.白井河原の合戦と中川清秀の活躍
 信長による摂津支配は在地の国人の支配関係をそのまま追認しただけだったことから、すぐにほころびをみせ始めます。いわゆる摂津三守護(池田勝正・伊丹親興・和田惟政)のうち、中川清秀が仕えていた池田氏では元亀元年(1570)、池田二十一人衆の荒木村重や中川清秀が池田勝正を追放、池田知正を擁立し、信長と戦っていた三好三人衆に寝返ります。
 その翌年の元亀2年(1571)には、池田方と信長方が摂津国白井河原(茨木市)で激突します。池田方の荒木村重・中川清秀と信長方の和田惟政が戦ったこの合戦は池田方の勝利となり、清秀は敵将和田惟政を討つ武勲をあげます。この勝利で勢いにのった荒木村重らは茨木城も攻略します。その6年後の天正5年(1577)、中川清秀は新庄城(大阪市東淀川区)から茨木城へと移ります。茨木城主中川清秀の誕生です。
中川2.jpg

3.茨木城と中川清秀
 天正5年(1577)中川清秀の入城後、茨木城は拡張整備が進んだとされており、中川氏が去る天正13年(1585)までの間に、惣構えをもつ城下町に整備されたと考えられています。
 中川清秀以後は、豊臣秀吉の代官、片桐氏、徳川家康の代官を経て、元和元年(1615)の一国一城令を受け、廃城となります。
 茨木遺跡の発掘調査で、当時の様子が徐々に明らかになりつつあります。とりわけ注目を集めたのが、平成18年の茨木城東堀の推定地の調査です。流路が見つかり、その中からは江戸時代初期の陶磁器と共に、筬欄間などの建具がまとまって出土しました。筬欄間は格式高いものであることから、城関連の建物や有力寺院のものであった可能性が考えられています。
 また、茨木神社には、当時、中川清秀がだした制札案がのこされています。
中川3.jpg

4.賤ヶ岳の合戦と中川清秀の死
 荒木村重が池田氏から自立した後は、中川清秀は荒木村重の下につきます。その荒木村重は元亀4年(1573)信長に仕えるようになり、摂津国を任されます。しかし、天正6年(1578)荒木村重は信長に謀反します。中川清秀は一度は荒木村重につくものの、義弟である古田重然(織部)の説得により、信長方につき、荒木村重の居城・有岡城(伊丹市)攻めに参加します。その後も信長配下として活躍、天正10年(1582)の本能寺の変以後は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)につき、明智光秀との山崎の合戦では高山右近と共に先陣をつとめ活躍します。
 梅林寺には、本能寺の変を秀吉に通報した中川清秀に対しての返答の書状が残されています。内容は、信長が無事であるという偽情報であり、中川清秀を味方に引き込むための秀吉の情報戦略がうかがわれます。
 清洲会議以後、柴田勝家と秀吉の対立は激しくなり、天正11年(1583)賤ヶ岳で両者は激突します。中川清秀もこの戦いに参加し、大岩山に布陣します。戦いは秀吉方の勝利となりますが、中川清秀は戦端を開くきっかけとなった勝家方の佐久間盛政の急襲を受け、奮闘するも戦死します。その遺髪は持ち帰られ、梅林寺に葬られました。
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↑大岩山本陣図(竹田市立歴史資料館蔵)

5.中川清秀の後裔
 中川清秀の死後、その長男である中川秀政が跡を継ぎ、茨木城主となりますが、天正13年(1585)転封され、播磨国三木城主となります。
 天正20年(1592)には、その秀政が朝鮮出兵時、番所見廻りの際に待ち伏せに会い、死亡します。父・清秀が賤ヶ岳の合戦で秀吉方につき討死したことに免じて、弟・秀成が跡目を継ぎます。(「中川氏御年譜」によると、実は見廻り中ではなく、鷹狩り中に襲撃を受け死亡)
 中川秀成は三木城主となりますが、文禄2年(1593)に豊後国岡へ転封を命ぜられます。慶長3年(1598)に、中川秀成が年貢・夫役について領民間の負担を均等にしようとした掟書の写しが残されています。
 中川秀成は、関ヶ原の合戦で徳川方につき、その後、中川氏は岡藩主として繁栄しながら代々続き、幕末を迎えることになります。(以上は、本企画展のパンフレットより転載)
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↑中川秀成掟書写(竹田市立歴史資料館蔵)

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◎ダルビッシュ史上最速メジャー奪500三振

マー君もダルビッシュの記録に挑戦して欲しいですね。


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コメント 6

シルフ

ダルビッシュはまさに三振王やねぇ。
花粉症で今日も絶不調なりぃ。
by シルフ (2014-04-08 08:15) 

たいちさん

シルフさん、niceとコメント有難うございます。
私も花粉症の渦中にいます。本日は甲子園球場での開幕戦ですので、球場へ行って来ます。ダルビッシュのような投手が阪神にいればねえ。
by たいちさん (2014-04-08 09:57) 

たいちさん

★めぎさん、nice有難うございます。

★いっぷくさん、nice有難うございます。

★世界のアイドルさん、nice有難うございます。

★やってみよう♪さん、nice有難うございます。

★tochiさん、nice有難うございます。

★すーやんさん、nice有難うございます。

by たいちさん (2014-04-08 10:00) 

たいちさん

★ひでかずさん、nice有難うございます。

★sugoimonoさん、nice有難うございます。

★makimakiさん、nice有難うございます。
by たいちさん (2014-04-08 14:43) 

たいちさん

★カァズさん、nice有難うございます。

★かずのこさん、nice有難うございます。

★つぼっちさん、nice有難うございます。

★k_igaさん、nice有難うございます。
by たいちさん (2014-04-09 12:18) 

たいちさん

non_0101さん、nice有難うございます。
by たいちさん (2014-04-13 09:25) 

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