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熊野古道を歩く旅(8)比曽原王子、 阪神巨人に連敗 [熊野古道]

7月17日(水)      第3回「語り部と行く!中辺路編・熊野古道を歩く旅」の続きです。

(地図にマウスを置くと拡大します)
【5月12日(日)】
↓野長瀬一族の墓を出て、しばらく行くと、「乙女の寝顔」のビューポイントです。
熊野134・乙女の寝顔.jpg熊野135・乙女.jpg
↑半作嶺(894m)の稜線が乙女の寝顔に見えます。皆様見えますか。

↓28番道標。                ↓近野小学校
熊野136・28番.jpg熊野137・近野小学校.jpg

↓近野小学校を過ぎてしばらく行くと右手に「近野神社」の石段です。↓近野獅子舞会館
熊野138・近野神社.jpg熊野139・近野獅子舞会館.jpg
◎近野神社(ちかのじんじゃ)
住所:和歌山県田辺市中辺路町近露1072番地
主祭神)大国主命  (配祀神)天照皇大御神 天児屋根命  丹生都比売命 誉田別命  宇賀霊命
              菅原道真  軻遇突智命 素盞鳴尊  見明之明神 金刀毘羅社  地主神
由緒:近野神社は明治の神社合祀により創設された神社。
 八幡社ほか近露の諸社は、明治七年の段階で近露王子社に合祀。
明治四十年四月宮ノ上にあった小社金刀比羅神社が幣帛料供進社に指定され、翌四十一年十一月二十八日に一村一社の神社合祀令で村内の王子神社 (大阪本王子・近露王子・比曽原王子・野中の継桜王子・中ノ川王子・小広王子・岩上王子・湯川王子)・春日神社・丹生神社・八藩神社・稲荷神社・下永井八幡神社・大畑八幡神社・同湯川の王子神社・地主神社(近露、野中、道湯川の旧三村の各地に祀られていた地主神等の小社を合祀)が合祀された。同四十二年七月境内地が狭隘のため現在地(一里石)を整地し遷宮。
社名を近野神社と改称され村社となった。大正三年二月会計法適用社に指定された。
 合祀前の由緒については『中右記』や、後鳥羽院熊野参詣の『御幸記』などその他で、その片鱗を知るのみで、合祀となった各社については今は全く知るよしもない。

11月3日の例祭には、無形文化財の野中の獅子舞が奉納されます。
私は、この神社に参拝したかったのですが、今ツアーはスルーし残念でしたね。

↓29番・30番道標。                             ↓こんな所に水道栓
熊野140・29番.jpg熊野141・30番.jpg熊野142・消火栓.jpg

↓ここからも「乙女の寝顔」が眺められます。                        ↓31番道標
熊野143・乙女の寝顔.jpg熊野144・31番.jpg

↓水道紀念碑
熊野145・水道紀念碑.jpg
↑「ひとり娘は野中えやるな 野中吹きあげ 水遠い」
これは野中の水の不便さを唄った古い地唄であるが、特に大畑地区にあってはその最たるものであった。時に昭和32年秋、水道布設の議が起こり、町会議員であった垣内多蔵、当会長前喜惣次及び宮本弓松等3氏のご尽粋ご努力の結果同3年晩秋大畑地区35戸に完全通水するを得て永年の愁眉を始めてひらき歓声は各戸に湧いた。依って組合員一同3氏の功績を讃え、後世の紀念のためにこの碑を建つ。(平成9年10月再建)

↓比曽原王子跡(ひそはらおうじ)
熊野146・比曽原王子跡.jpg熊野147・比曽原.jpg
↑【比曽原王子跡】藤原宗忠が熊野に参詣した天仁2年(1109)には、近露王子から中川王子までの間に王子社は見られず、この王子はそれ以降に出現したとみられます。建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家は、近露王子についで、「ヒソ原」王子に参拝しています。また承元4年(1210)4月修明門院に随行した藤原頼資も、近露王子についで「檜曽原」王子に参拝しています。鎌倉時代末期の「熊野縁起」(仁和寺蔵)以降は、比曽原王子と書かれますが、早く荒廃したようで、紀州藩は享保8年(1723)に緑泥片岩の碑を建てています。現在はこの石碑から跡地を偲ぶのみですが、「紀伊続風土記」には、かって境内に「手枕松」という名木があったという伝承を載せています。明治末期に石碑だけの比曽原王子神社として、金比羅神社(現・近野神社)に合祀されました。(以上、説明板より)

↓一里塚跡                                    ↓33番道標
熊野148・一里塚跡.jpg熊野149・33番.jpg

※続きは明日アップします。

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◎昨日の阪神タイガース

オールスター戦前の最後の3連戦が宿敵巨人です。今季のセ・リーグは巨人と阪神のマッチゲームの様相です。しかし、この日の試合内容は、横綱と幕下の相撲のように、阪神の崩れ方は、脆かったです。

回数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) 甲子園、 18:00、 39,652人
巨人:000・000・800・・・・・・・8・・・・・・・・(11)
阪神:300・000・000・・・・・・・3・・・・・・・・(10)

【マルチ安打】西岡2、俊介2、新井貴2、今成2
【打点】新井貴2、今成1
【投手】
・スタンリッジ 6回3分の1:7安打、2三振、1四球、3失点
●加藤     3分の0:1安打、無三振、無四球、1失点(37試合1敗1S)
・安藤   1回3分の1:1安打、1三振、3四球、4失点
・筒井     3分の1:1安打、無三振、無四球、無失点
・ボイヤー      1回:1安打、無三振、1四球、無失点
・松田       1回:無安打、1三振、無四球、無失点
・菅野       4回:7安打、5三振、無四球、3失点
○笠原       2回:1安打、1三振、1四球、無失点(23試合3勝1敗)

※阪神は、1回こそ打線が繋がって先制しましたが、その後幾度もチャンスありながら勝負所で打てませんでした。守備面では、坂・今成・俊介の若手の拙さが目立ちました。
※巨人に3タテする姿を見たくないですね。

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熊野古道を歩く旅(7)近露王子 [熊野古道]

7月16日(火)       第3回「語り部と行く!中辺路編・熊野古道を歩く旅」の続きです。
熊野古道なかへち公式サイト:http://www.nakahechi.jp/kumanokodo.html

牛馬童子像から近露王子への熊野古道を下って行くと、車道に出てきます。

熊野119・地図.jpg
↑(クリックすると地図が拡大します)

【5月12日(日)】
↓日置川に架かる北野橋を渡ると、近露王子の入口です。12時25分到着。
熊野118・日置川に架かる北野橋.jpg熊野119・近露王子.jpg

↓境内で弁当を貰い、昼食です。今回も郷土の手作り弁当です。
熊野120・弁当.jpg
熊野121・弁当.jpg

◎近露王子跡(ちかつゆおうじ)
 永保元年(1081)10月、熊野に参詣した藤原為房は、川水を浴びた後、「近湯」の湯屋に宿泊しています。王子社の初見は、藤原宗忠の日記、天仁2年(1109)10月24日条で、宗忠は川で禊をした後、「近津湯王子」に奉幣しています。このように古くは「近湯」「近津湯」とありますが、承安4年(1174)に参詣した藤原経房の日記以降は、「近露」と書くようになります。建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻についで、近露でも歌会が行われています。定家は川を渡ってから近露王子に参拝していますので、上皇の御所は右岸にあったようです。承元4年(1210)修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記でも同様で、女院は4月29日に宿所に着いて「浴水・禊」をし、翌5月1日に王子社に参拝しています。このように近露では宿泊することが多く、川水を浴びた後、王子に参拝するのが通例でした。江戸時代には、若一王子権現社と呼ばれ、木像の神体が安置されていたようです。明治時代には王子神社となりましたが、末期には金比羅神社(現・近野神社)に合祀されました。なお跡地の碑の文字は、大本教主出口仁三郎の筆によるものです。(以上は説明板より)
※本殿についての記述サイト:http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=240426

↓石碑
熊野123・石碑.jpg
↑「近露王子之跡」と書かれた碑の文字は、記名はないですが、大本教主出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)の筆跡です。昭和8年(1933年)3月21日、王仁三郎がこの地に来た時、当時の近野村長横矢球男の依頼で筆をふるったのです。翌年1月それを彫りつけた王子碑が建立されました。その2年後の昭和10年12月大本教は、2回目のはげしい宗教弾圧をうけ、この碑も取り壊さねばならないことになりました。その時横矢は、「この文字は筆跡を自分が模写したものである」と主張し、保存していた王仁三郎の書を警察に提出しました。そして、碑面に彫られていた「王仁」の署名を削り、そこに「横矢球男謹書」と彫り改めて、王子碑の撤去をまぬがれたといいます。出口王仁三郎の筆跡の碑は全国に数多く建てられていましたが、他はことごとく破壊され、辛うじて残ったのはこの碑文だけとされています。(以上は説明板より)

↓スタンプ
熊野122・スタンプ.jpg

↓境内にある花仙の歌碑                                  ↓不詳
熊野124・花仙.jpg熊野125・歌碑.jpg

↓近露王子跡の向かい側にある「なかへち美術館」
熊野126・なかへち美術館.jpg熊野127・美術館.jpg
↑時間がなかったので立ち寄ることは出来ませんでした。

↓近露伝馬所跡
熊野129・伝馬所跡.jpg
↑この付近は、近露道中といわれ、熊野街道の宿場としてにぎわった所で、江戸時代には10軒近くの宿屋があり、伝馬所もここ(丹田家)に設けられていた。伝馬所は紀州藩が官吏の通行の便宜と公用の文書・荷物の逓送のために設置した役所で、ここ近露伝馬所には馬が12頭常備され、人足は地区民が交代で出て、西は逢坂峠・十丈峠を隔てた高原、東は比較的近い野中との連絡にあたった。
 歌人加納諸平が天保初年近露に泊まって「駅長竹の小筒を吹くからに山のかひこそ声あはせけれ」という和歌を詠んだが、夜中に逓送しなければならぬ至急便がきて、伝馬所の長が竹筒を吹いて人足を呼んでいるのである。人足を呼ぶ合図にははら貝を吹くこともあった。(以上、説明板より)


↓27番道標                           ↓月海山観音寺
熊野130・27番.jpg熊野131・月海山観音寺.jpg

↓野長瀬氏・横矢氏一族の墓所(和歌山県指定文化財)
熊野132・野長瀬一族の墓.jpg
↑野長瀬氏は大和十津川郷野長瀬組の出、生業を通じて畿内各地と交易し、13世紀初頭近露荘下司職となり当地と往来、河内の楠木氏らとも交流したと考えられる。元弘の変以降楠木正成を助け、また南都から吉野に向かった護良親王の危急を救ったことは「太平記」に見え、その功により、横矢姓を賜ると伝えられる。以後一族はそれぞれ野長瀬・横矢を称し、南朝・後南朝を助けたが利あらず近露に帰住、勢力を張った。
豊臣氏の紀州征伐に抗し一族離散、数十年後再び近露に戻り、家運の再興を図り現在に至っている。これらの墓碑は後南朝以後、紀州征討の頃までの一族のものと思われるが付近山中に長く埋もれていたのを1960年初頭発掘、ここに祀った。五輪54基、宝篋印塔6基。(以上は説明板より)

熊野134・史跡.jpg熊野133・横矢姫伝承.jpg

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◎昨日の阪神タイガース

回数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) 甲子園、 18:01、 46,876人
巨人:300・011・010・・・・・・・6・・・・・・・・(8)
阪神:020・001・000・・・・・・・3・・・・・・・・(9)

【本塁打】新井貴11号ソロ(6回、杉内)、阿部23号ソロ(5回、能見)、村田11号ソロ(8回、筒井)
【マルチ安打】新井良2、藤井2
【打点】西岡1、新井貴1、藤井1
【投手】
●能見     6回:6安打、4三振、4四球、5失点(15試合8勝4敗)
・安藤     1回:1安打、1三振、無四球、無失点
・筒井     1回:1安打、無三振、無四球、1失点
・松田     1回:無安打、1三振、無四球、無失点
○杉内5回3分の2:6安打、4三振、3四球、3失点(15試合8勝4敗)
S西村     1回:1安打、1三振、1四球、無失点(39試合2勝3敗23S)

※能見の一人相撲、自滅でしたね。1回3四球の満塁で村田に長打を浴びて試合が決まりました。
※阪神は勝負所で弱いですね。これで甲子園で巨人に3連敗です。意気地なしですね。
※これで、巨人の前半戦首位ターンが決まりました。
※鳥谷が3試合無安打と不調なのが、心配です。鳥谷は年間を通じで近年になく不調ですね。

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熊野古道を歩く旅(6)牛馬童子 [熊野古道]

7月15日(月)       「第3回語り部と行く!中辺路編・熊野古道を歩く旅」の記事です。
今回のコースは、前2回と違い、比較的高低差が低く、いわゆる「御姫様コース」ですので、我妻も初挑戦し、友人のT氏と3人でツアーに参加しました。この日の天候は、晴天でしたので、前回と違い多くの写真を撮りましたので、数回に分けてアップしていきます。

熊野100・地図.jpg
(地図をクリックすると拡大します)

【5月12日(日)】
7時20分梅田集合し、道の駅「牛馬童子ふれあいパーキング」に到着しました。10時40分ここから歩きが始まります。

↓道の駅
熊野101・道の駅.jpg

↓牛馬童子口から熊野古道に入っていきます。
熊野102・牛馬童子口.jpg

↓このような急な登りを5分ほど歩きます。
熊野103・古道.jpg

↓すると、旧国道に出ますので、ここで皆でストレッチ体操です。今回の語り部は男性です。
熊野104・体操.jpg

↓また、林間の熊野古道に入ります。24番道標を横目に見ながら古道を進みます。
熊野105・古道.jpg熊野106・24番.jpg熊野107・草花.jpg

↓一里塚跡を過ぎると、箸折峠の石碑がありました。
熊野108・一里塚跡.jpg熊野109・箸折峠.jpg熊野110・古道.jpg
↑箸折峠の石碑は、この辺りの地主が建てたようです。

↓今回のコースの見所である「牛馬童子」(ぎゅうばどうじ)像にやって来ました。
熊野111・牛馬童子.jpg
熊野112・牛馬.jpg熊野113・牛馬.jpg
↑右が馬で、左が牛、上に乗るのが花山法皇です。

↓宝篋印塔(ほうきょういんとう)
熊野114・塔.jpg熊野115・塔.jpg
箸折峠の牛馬童子】(はしおりとうげ ぎゅうばどうじ)
 箸折峠のこの丘は、花山法皇が御経を埋めた所と云われ、またお食事の際カヤの軸を折って箸にしたので、ここが箸折峠、カヤの軸の赤い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」と尋ねられたので、この土地が近露という地名になったという。ここの宝篋印塔は鎌倉時代のものと推定され、県指定の文化財である。石仏の牛馬童子は花山法皇の旅姿だというようなことも言われ、その珍しいかたちと可憐な顔立ちで、近年有名になった。そばの石仏は役行者像である。(以上は説明板より)

↓牛馬童子を過ぎると、間もなく休憩所に到着します。ここから近露の集落が一望できます。
熊野116・25番近くの休憩所.jpg熊野117・展望.jpg

※次回は、近露王子についてアップします。

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◎昨日の阪神タイガース

回 数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) 甲子園、 18:37、 44,979人
DeNA:010・000・030・・・・・・・4・・・・・・・(12)
阪 神:000・007・01×・・・・・・・8・・・・・・・(10)

【本塁打】
新井良8号満塁(6回、大原)、ブランコ29号ソロ(2回、藤浪)、中村12号2ラン(8回、ボイヤー)
【マルチ安打】大和2、坂2
【打点】新井良4、今成2、藤井1、森田1
【投手】
○藤浪      6回:5安打、7三振、2四球、1失点(13試合6勝3敗)
・加藤      1回:3安打、1三振、無四球、無失点
・ボイヤー 3分の2:3安打、無三振、1四球、3失点
H安藤  3分の1:1安打、無三振、無四球、無失点
・福原      1回:無安打、1三振、1四球、無失点
●三浦 5回3分の1:6安打、2三振、4四球、6失点(15試合6勝7敗)

※藤浪の甲子園での無敗記録が続きました。彼は何かを持った男ですね。
※巨人が連敗したので、ゲーム差は、1.5と縮まりました。
本日からの巨人3連戦が前半戦の最終ですので、まず勝越しを願っています。

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熊野古道を歩く旅(5)大門王子・大坂本王子 [熊野古道]

7月14日(日)     「第2回語り部と行く!中辺路編・熊野古道を歩く旅」の記事です。

【4月6日(土)】
この日は、爆弾低気圧の接近で、外出自粛勧告も出ていました。とりあえず集合場所の梅田へ行きました。今回も友人のT氏と同行です。彼は中止だろうと思っていたそうです。7時35分バスが出発し、10時20分中辺路行政局前でバスを降りました。10時50分雨具姿で、前回のゴール地点の「高原霧の里」へ、雨中熊野古道を登って行きました。
熊野古道44・地図.jpg熊野古道45・地図.jpg
(クリックすると、地図が拡大します)

↓富田川に架かる富源橋を渡って高原霧の里へ登っていきます。
熊野古道46・富源橋.jpg

11時25分に高原霧の里に到着。ここで弁当を受け取り昼食です。
熊野古道47・弁当.jpg
熊野古道48.jpg
↑素朴ながら、美味しい弁当でした。

12時5分、この日のメインコースの熊野古道へ入りました。

↓8番道標                            ↓庚申さん
熊野古道49・8番.jpg熊野古道50・庚申.jpg

↓一里塚跡                            ↓高原池
熊野古道51・一里塚跡.jpg熊野古道52・高原池.jpg
↑語り部さんの説明では、人工の池だそうです。魚は慣れていないので、入れ食いとのこと。

大門王子跡(だいもんおうじ)
熊野古道53・大門王子跡.jpg
↑この王子は、中世の記録には登場しません。王子の名の由来は、この付近に熊野本宮の大鳥居があったことによるものと考えられます。鳥居の付近に王子社が祀られ、それにちなんで大門王子と呼ばれたのでしょう。天仁2年(1109)に熊野に参詣した藤原宗忠は、この付近の水飲の仮屋に宿泊しており、建仁元年(1201)に参詣した藤原定家も、この付近の山中で宿泊しています。江戸時代になって、享保7年(1772)の「熊野道中記」に、「社なし」としてこの王子の名が見え、紀州藩は享保8年(1723)に緑泥片岩の石碑を建てました。この王子碑と並んで、鎌倉時代後期のものとされる石造りの笠塔婆の塔身が立っています。以前には松の大木がありましたが枯れてしまい、その後朱塗りの社殿が建てられ、この王子跡付近の様相は一変しました。(以上は、説明板より)

十丈(重點)王子跡(じゅうじょうおうじ)
熊野古道54・十丈王子跡.jpg熊野古道55・.jpg
↑この王子社は十丈峠にあり、現在は十丈王子と呼ばれています。しかし、平安・鎌倉時代の日記には、地名は「重點」(じゅうてん)、王子社名は「重點王子」と書かれています。天仁2年(1109)10月24日、藤原宗忠は熊野参詣の途中、雨中に重點を通っています。重點王子の名は、建仁元年(1201)10月14日後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記に初見しています。また、承元4年(1210)に、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の参詣に随行した藤原頼資も4月30日に「重點原」で昼食をとり、この王子に参詣しています。江戸時代以降、十丈峠、十丈王子と書かれるようになった理由は、はっきりしません。かってこの峠には、茶店などを営む数軒の民家があり、明治時代には王子神社として祀っていましたが、その後、下川春日神社(現、大塔村下川下春日神社)に合祀され、社殿は取り払われました。(以上、説明板より)

小判地蔵
熊野古道56・小判地蔵.jpg
↑この小判地蔵は、飢えと疲労のために、小判をくわえたまま、ここで倒れたという巡礼を弔って、まつられたものである。地蔵には「道休禅定門」という戒名が彫り付けてあり、豊後国(大分県)有馬郡の人であったことがわかる。多分、伊勢と熊野に参って紀三井寺へ向う途中、嘉永7年(1854)7月18日に亡くなり、その死を哀れんで、この地の愛洲氏が主になって、地蔵を建てたのである。(以上は説明板より)

↓悪四郎屋敷跡                          ↓上多和茶屋跡
熊野古道57・悪四郎屋敷跡.jpg熊野古道58・上多加茶屋跡.jpg
悪四郎屋敷跡・・・・・十丈の悪四郎は伝説上の有名な人物で、力が強く、頓智にたけていたといわれる。悪四郎の「悪」は、悪者のことではなく、勇猛で強いというような意味である。江戸時代の「熊野道中記」の一書に十丈の項に「昔十丈四郎と云う者住し処なり」とあり、それがここだと見られている。背後の山が悪四郎山(782m)で、ここから約30分で山頂へ登ることができる。(以上は説明板より)
上多和茶屋跡・・・・・この山上は、上多和と呼び、標高約600m。熊野詣の盛んな頃は、ここに茶店もあったといわれ、大正期にも人家があって林中には、三界万霊塔やお墓もある。また、この山上には陰暦の11月23日の夜になれば、東の空に三体の月が現れるとの伝承があり、ここにあったしめ掛け松のもとに大勢集まり粟や黍(きび)の餅を供え、心経をくり、月の出を待ったという。三体月は「熊野権現垂縁起」の伝承の中にもみられる。(以上は説明板より)

↓熊野古道                                   ↓三体月伝説
熊野古道59.jpg熊野古道60・三体月伝説.jpg
三体月伝説・・・・・今は昔、熊野三山を巡って野中近露の里に姿を見せた一人の修験者が、里人に「わしは11月23日の月の出たとき、高尾山の頂きで神変不可思議の法力を得た。村の衆も毎年その日時に高尾山に登って月の出を拝むがよい。月は三体現れる。」 半信半疑で村の庄屋を中心に若衆達が、陰暦の11月23日の夜、高尾山に登って月の出を待った。やがて時刻は到来、東伊勢路の方から一体の月が顔をのぞかせ、あったいうまにその左右に二体の月が出た。三体月の伝説は、上多和、悪四郎山、槇山にもある。(以上は説明板より)

大坂本王子跡
熊野古道61・大坂本王子跡.jpg
↑大阪本王子(おおさかもとおうじ)は、大阪峠(逢坂峠)の麓にあることから名づけられたと見られる。逢坂峠は近露側から登るには相当の急坂であることから、古くから大坂と呼ばれており、『為房参詣記』10月7日条に「大坂之草庵」、『中右記』10月14日条に「大坂本王子」の地名が登場している。
江戸時代には「大坂王子」「相坂王子」とも記され、『続風土記』には社殿はなく碑のみとし、御幸記より大坂本王子の跡地と推定しているが、『熊野詣紀行』には小社ありと述べられている。1909年(明治42年)に近露の近野神社に合祀され、廃絶。現比定地に遺されている笠塔婆は、他に見られるものと同じく鎌倉時代後期に造立された町石卒塔婆である。


16時25分に牛馬童子ふれあいパーキングに到着。無事この日のハイキングはゴールしました。しかし私達両名は運動靴での歩きでしたので、足はずぶ濡れ。体も汗と雨でびっしょりでした。梅田には20時に到着し、今回もまた「亀多寿司」で反省会を二人でしました。その結果、装備をキッチリしようという事になり、後日トレッキング靴や専用ズボン等を購入した次第です。
今回のコースも起伏が激しく、ハードなコースでした。それに雨中の行進でしたので、写真も多くは撮れませんでした。

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◎昨日の阪神タイガース

回 数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) 甲子園、 44,087人
DeNA:000・500・001・・・・・・・6・・・・・・・・(7)
阪 神:000・000・000・・・・・・・0・・・・・・・・(5)

【本塁打】金城4号3ラン(4回、秋山)、ブランコ28号ソロ(9回、渡辺)
【マルチ安打】大和2
【投手】
●秋山   5回:5安打、6三振、1四球、5失点(3試合2敗)
・ボイヤー  2回:無安打、2三振、無四球、無失点
・松田   1回:1安打、1三振、無四球、無失点
・渡辺   1回:1安打、1三振、無四球、1失点
○藤井   9回:5安打、6三振、2四球、無失点(16試合5勝3敗)

※今日の試合は采配ミスです。デーゲームで巨人が負けたので手を緩めたのでしょう。
最近好調だった今成・坂を外して(相手が左腕だから)高山・新井良を起用したのが裏目に出た。
特に新井良はライナーを弾いて二塁打にしたことが、大量失点のキッカケでした。
先発秋山は、3回まで素晴らしい投球内容でしたが、自らの犠牲バント失敗が後を引き、不甲斐なく崩れてしまいました。セルフコントロールが弱いのでしょうね。

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熊野古道を歩く旅(4)高原熊野神社、 阪神5連勝 [熊野古道]

7月11日(木)     第1回「語り部と行く!中辺路編・熊野古道歩く旅」の続きです。

【3月9日(土)】

↓最後の急な登り坂                      ↓NHKテレビ塔
熊野古道28.jpg熊野古道29・NHKテレビ塔.jpg

↓6番道標                        ↓夫婦地蔵
熊野古道30・6.jpg熊野古道31・夫婦地蔵.jpg

↓高原の集落へ出てきました。
熊野古道32.jpg熊野古道33.jpg

↓梅の花が咲いていました。
熊野古道34・梅.jpg熊野古道35.jpg

高原熊野神社(たかはらくまのじんじゃ)
住所:和歌山県田辺市中辺路町高原1120
主祭神:速玉大神。配祀:大山祇神、素盞男神、地主神、稲荷神、金刀比羅神。
社格:村社。創建:伝応永9年(1402)。本殿様式:春日造檜皮葺。別名:高原王子。例祭:10月10日

いわゆる熊野九十九王子には入りませんが、春日造の本殿は室町時代前期の様式を伝え、熊野参詣道中辺路における最古の神社建築として、県の文化財に指定されています。応永10年(1403)の墨書銘のある懸仏を神体としており、これは当社の創建にかかわるとみられます。
高原の地名は、藤原宗忠の日記の天仁2年(1109)10月23日条に初見します。宗忠は滝尻坂を登った後、「牟波女坂」・高原を経て山中の水飲の仮屋で宿泊しています。
承安4年(1174)に参詣した藤原経房は、雨天になったため、高原の小宅で早目の昼食をとっていますが、鎌倉時代の参詣記においても、高原で宿泊や休息をした例はありません。しかし応永34年(1427)に参詣した足利義満の側室・北野殿は石王兵衛の立派な家に宿泊しています。熊野参詣道が潮見峠越えに改まった南北朝期以降、高原は熊野参詣や西国巡礼の宿場として賑わうようになりました。(以上、説明板より)

↓鳥居
熊野古道36・高原熊野神社.jpg

↓本殿
熊野古道37.jpg
熊野古道38.jpg

↓相殿
熊野古道39・相殿.jpg

↓社務所と手水舎
熊野古道40・社務所と手水舎.jpg

↓樹齢1000年以上の神木の楠                  ↓村の入口の庚申さん
熊野古道41・楠.jpg熊野古道42・庚申.jpg

↓この日のゴールである「高原霧の里」(無料休憩所)に14時に到着しました。
熊野古道43・高原霧の里.jpg

初めての熊野古道で、当初の予想ではもっと簡単なハイキングコースと思っていましたが、かなりハードで、リタイアした人も出るくらいでした。
語り部が草木花や歴史の話を適当に休息を兼ねてしてくれます。回数多く水分補給する必要を感じました。


14時30分高原霧の里を出発し、バスが待っているドライブイン古道の里まで、急な坂を下りました。
15時30分ドライブインを出発。途中、紀菜柑で買物(16時~16時30分)し、梅田には19時10分到着。
一緒に行ったT氏と「亀多寿司」で食事して帰宅しました。

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◎昨日の阪神タイガース

回数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打)  那覇、 19:00、 16,355人
中日:000・000・100・・・・・・・1・・・・・・・・(5)
阪神:000・113・01×・・・・・・・6・・・・・・・(12)

【本塁打】西岡3号3ラン(6回、西川)
【マルチ安打】西岡3、今成2、スタンリッジ2
【打点】西岡4、マートン1、坂1
【投手】
○スタンリッジ   7回:4安打、5三振、3四球、1失点(14試合5勝6敗)
・筒井     1回:1安打、無三振、無四球、無失点
・渡辺     1回:無安打、無三振、無四球、無失点
●西川     6回:9安打、無三振、4四球、5失点(5試合1敗)

※阪神は、5連勝です。オールスター戦まで、DeNAと巨人の6連戦あります。全勝する夢を見ましょう。

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熊野古道を歩く旅(3)不寝王子跡 [熊野古道]

7月10日(水)       第1回「語り部と行く!中辺路編・熊野古道歩き旅」の続きです。

【3月9日(土)】
滝尻王子の裏山から急激な登り坂が続きます。
熊野古道・地図1.jpg
↑クリックすると、地図が拡大します。

↓胎内くぐり
熊野古道11・胎内くぐり.jpg
↑今回は、団体ツアーでしたので、覗くだけでした。女性が胎内くぐりをすれば、安産になると信じられていました。

↓乳岩
熊野古道12・乳岩.jpg
↑むかし奥州の豪族・藤原秀衡が夫人同伴で熊野参りに来た時、ここで夫人が急に産気づき、この岩屋で出産したという伝説がある。夫婦は赤子をここに残して熊野に向かったが、その子は岩からしたたり落ちる乳を飲み、狼に守られて無事だったので、奥州へ連れ帰ったと伝えられている。その子が成長して、秀衡の三男の和泉三郎忠衡になったという話まである。(以上は説明板より)

不寝王子跡(ねずおうじあと)
熊野古道13・不寝王子跡.jpg
↑滝尻王子から背後の剣ノ山の坂道を400mほど登った所に、ネズ王子(不寝王子)の跡だとされる場所がある。藤原秀衡伝説で知られる乳岩の少し上方にある。ネズ王子の名称は古い記録に見えず、九十九王子のうちに入ることもないが、元禄2年の「紀南郷導記」に、ネジ王子という小社の跡があると記されている。

↓このように、押印所のスタンプを押印帳に押していきますが、添乗員がツアー参加者全員分を預っていて、押印してくれます。
熊野古道14・スタンプ.jpg

↓1番道標です。滝尻王子から500mの距離です。
熊野古道15.jpg熊野古道16.jpg

↓2番道標。(番号道標は、500m毎に設置されています)
熊野古道17・2.jpg熊野古道18.jpg

↓剣ノ山経塚跡                           
熊野古道19・剣ノ山経塚跡.jpg
↑ここ剣ノ山の上は、古くは神聖な場所とされていた。ここから熊野本宮へかけて九品(くほん)の門が建ち、ここは最初の下品下生(げぼんげしょう)の門があったといわれる。この経塚跡は経典を経筒に入れ、それを壺に納めて地中に埋めた所である。明治末期に盗掘され、ここから出た常滑製の壺だけが、いま古道館に展示されている。滝尻王子の社前にある笠塔婆という石塔も、もとはここにあったようで、経塚の上に立っていたと推測される。(以上は説明板より)

滝尻王子からここまで、いっきに急坂を登りますので、中辺路ルートの中でも一番の難所と云えます。

↓3番道標、滝尻王子から1.5km。
熊野古道20・3.jpg熊野古道21・道標.jpg

↓飯盛山の展望台                   ↓展望台からの眺望
熊野古道22・展望台・飯盛山.jpg熊野古道23・展望.jpg

↓4番道標。                車道に一旦合流               5番道標↓
熊野古道24・4.jpg熊野古道25.jpg熊野古道26・5.jpg

↓針地蔵尊
熊野古道27・針地蔵尊.jpg
↑歯が痛い時にお参りすれば治ると信じられていました。

※続きは明日アップします。

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◎昨日の阪神タイガース

回数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) 那覇、 19:00、 15,714人
中日:000・100・100・・・・・・・2・・・・・・・・(9)
阪神:300・002・01×・・・・・・・6・・・・・・・(12)

【本塁打】新井貴10号2ラン(6回、岡田)、平田5号ソロ(4回、能見)
【マルチ安打】西岡2、大和2、マートン3、新井貴2
【打点】西岡1、マートン1、新井4
【投手】
○能見    7回:7安打、8三振、2四球、2失点(14試合8勝3敗)
H安藤    1回:1安打、1三振、無四球、無失点
・ボイヤー   1回:1安打、無三振、無四球、無失点
●田島    4回:6安打、2三振、無四球、3失点(32試合1勝7敗)

※阪神は4連勝と好調ですが、巨人も負けません。ゲーム差は3.5です。

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熊野古道を歩く旅(2)滝尻王子 [熊野古道]

7月9日(火)      気象庁は8日、九州から東海地方にかけて梅雨明けしたとみられると発表しました。近畿地方の梅雨明けは平年より13日、昨年より8日早く、1951年の統計開始以来3位タイの早さだそうです。しかし雨量は平年より多かったそうです。皆さん、猛暑による熱中症に気を付けましょうね。     

第1回語り部と行く!中辺路編「熊野古道を歩く旅」のスタート地点が滝尻王子です。実施日は3月9日です。(7月6日に無事完歩しましたので、数回に分けてアップします)
【3月9日(土)】
滝尻王子(たきじりおうじ)正式名:滝尻王子宮十郷神社
住所:和歌山県田辺市中辺路町栗栖川859
主祭神:天照皇大神、日子火能迩々芸命、天忍穂耳命、日子穂々手見命、鵜茅葺不合命
  「熊野縁起」(1326)によれば不空羂索菩薩を本地としていた。
社格:村社。創建:不明。本殿:流造。例祭:11月3日

熊野九十九王子のうち、五体王子の一つとして重視された由緒ある王子。観音菩薩の補陀落浄土から流れてくる岩田川(富田川)の水と、薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる石船川の合流点にあり、ここで垢離をとり歌会や神楽が開かれた。旧社地は明治22年の洪水で流され、その対岸に社祀を移した。明治末には、神社合併が行われたが戦後は各集落に御神体を持ち帰ったため、実質的にもとの滝尻王子に戻っている。

↓滝尻王子の入口
滝尻王子1.jpg

↓語り部が由来・歴史等を説明。
滝尻王子2・語り部の説明.jpg

↓周りには、スギ花粉がいっぱい。花粉症の私には辛い季節です。
滝尻王子3・スギ花粉.jpg

後鳥羽上皇の歌碑。
滝尻王子4・後鳥羽上皇の歌碑.jpg
↑後鳥羽上皇は28回も参詣され、王政復権を祈願し、幾度も歌会を催したが、承久の乱に敗れて、隠岐に流され、そのまま終焉を迎えられた。後鳥羽上皇の尽きせぬ情熱を後世に伝えるため、平成8年10月有志により歌碑が建立された。

↓鳥居
滝尻王子6・鳥居.jpg
↑平成5年4月建立。

↓拝殿
滝尻王子7・拝殿.jpg

↓本殿
滝尻王子8・本殿.jpg

↓押印所と起点標
滝尻王子9・押印所と起点標.jpg
↑ここを起点として、熊野本宮大社までの熊野古道には、500m毎に番号順に道標がたてられています。

↓境内に橋を供養した宝篋印塔とそれに並んで宝珠の失われた町石笠塔婆といわれる笠塔婆。
滝尻王子17・印塔、笠塔婆.jpg

↓熊野道の石碑や、乳岩としるされた岩が、無造作に置かれています。
滝尻王子10・熊野道、乳岩.jpg

↓休憩所
滝尻王子11・休憩所.jpg

↓句碑
滝尻王子12・句碑.jpg
↑「松蝉や 熊野古道 草の中」五十嵐播水
 「滝尻や 夕日に鮎の また掛かり」五十嵐哲也。(親子関係)

滝尻王子の拝観・見学後、境内で昼食時間がとられました。
↓ハイキングをスタートする前に、ストレッチ体操。
滝尻王子13・体操.jpg

中辺路ルートの熊野古道の起点は、ここ滝尻王子です。11時30分いよいよ熊野古道ハイキングがスタートしました。本殿の裏から険しい「剣ノ山」に登って行きます。

↓大岩を抱える木の根
滝尻王子14・大岩を抱える木の根.jpg

↓裏山から滝尻王子の社殿を見下ろす。
滝尻王子15・裏山から神社を.jpg

↓このような急な登りが、いきなり続きます。
滝尻王子16・急な登り.jpg

※次回に続きます。

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熊野古道を歩く旅(1)、 ジョコビッチとマレーが決勝進出 [熊野古道]

7月6日(土)       今日は、「熊野古道を歩く旅」の最終回に行って来ます。
阪急交通社が募集し、3月より月1回(全5回)実施しているハイキングです。
【スケジュール】
◎語り部と行く!中辺路編「熊野古道を歩く旅」
第1回:3月9日(土)晴。滝尻王子~高原熊野神社。約6km
第2回:4月6日(土)雨。高原熊野神社~牛馬童子。約10.5km
第3回:5月12日(日)晴。牛馬童子~小広王子。約10.6km
第4回:6月16日(日)曇一時晴。小広王子~発心門王子。約11km
第5回:7月6日(土)曇時々雨。発心門王子~熊野本宮大社。約7km
熊野古道1.jpg

熊野古道(熊野参詣道)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる参詣道の総称です。2004年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、世界文化遺産に登録されました。巡礼道が世界遺産に登録されたのは、スペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」と熊野古道だけです。

熊野古道には、いくつかのルートがありますが、「中辺路」ルートは古来より最も多く利用されました。
古代から中世にかけ熊野三山の信仰がたかまり、上皇・貴族から庶民に至るまで、多くの人々が熊野に参詣した。当時その道中に熊野権現の御子神をまつったのが熊野九十九王子である。九十九王子は実際の神社の数でなく、多いことを表現したものです。道のりは、苦しみが多いほどご利益も大きいと信じられ、こぞって田辺から山中に入る険しい「中辺路」が好まれ、「蟻の熊野詣」といわれるほど参拝者で賑わった。

最初の熊野行幸は、907年の宇多法皇と言われている。1090年の白河上皇の熊野行幸を契機に熊野三山の参詣がブームが起こった。白河上皇は9回、後白河上皇は33回も熊野行幸を行なった。
今回、この険しい中辺路の熊野古道を歩いてみて、昔の上皇・法皇や貴族らが、よくもこんな険しい山道を歩いたものだと、驚かされましたね。

これから、「熊野古道を歩く旅」を数回に分けて掲載していきます。

3月9日第1回:語り部と行く!中辺路編「熊野古道を歩く旅」
↓7時20分集合の梅田芸術劇場前です。
熊野古道2・梅田.jpg

7時40分、42名参加して貸切バスで出発。湾岸道路・阪和道を経由して、滝尻へ向かいました。
車中で、熊野古道のビデオが放映され、事前に学習しました。今回のツアーには、現地の語り部が付くのが特徴です。語り部は女性二名とのことですので、バスの座席で二班に組み分けしました。

↓車中で配布された地図帳と押印帳。
熊野古道10・資料.jpg

↓10時40分に「熊野古道館」に到着。ここからバスを降り、歩きが始まります。
熊野古道3・熊野古道館.jpg

↓語り部から、熊野古道の説明を受ける
熊野古道4.jpg
熊野古道5.jpg
熊野古道6.jpg

滝尻王子を参拝後、境内で早い昼食を食べました。
↓支給された手作り弁当
熊野古道8・弁当.jpg
熊野古道9.jpg

↓滝尻王子の前にある「世界遺産」碑
熊野古道7・世界遺産石碑.jpg

※「滝尻王子」については、次回掲載します。

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◎昨日の阪神タイガース

回数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) マツダ、 21,165人
阪神:021・000・000・・・・・・・3・・・・・・・・(6)
広島:100・000・000・・・・・・・1・・・・・・・・(5)

【本塁打】新井貴9号ソロ(2回、武内)、今成1号ソロ(2回、武内)
【マルチ安打】坂2
【投手】
○メッセンジャー 9回:5安打、6三振、無四球、1失点(15試合7勝4敗)
●武内    2回:2安打、無三振、無四球、2失点(3試合1敗)

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◎ウィンブルドン男子準決勝

○ノバク・ジョコビッチ(SRB) 7-5、4-6、7-6、6-7、6-3 ●ファンマルティン・デルポトロ

○アンディ・マレー(GBR)  6-7、6-4、6-4、6-3  ●ジャージ・ヤノビッチ(POL)

決勝進出は、第1シードのジョコビッチと、第2シードのマレーです。 
ウィンブルドン1.jpg
ウィンブルドン2.jpg
ウィンブルドン3.jpg
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