SSブログ

熊野古道を歩く旅(7)近露王子 [熊野古道]

7月16日(火)       第3回「語り部と行く!中辺路編・熊野古道を歩く旅」の続きです。
熊野古道なかへち公式サイト:http://www.nakahechi.jp/kumanokodo.html

牛馬童子像から近露王子への熊野古道を下って行くと、車道に出てきます。

熊野119・地図.jpg
↑(クリックすると地図が拡大します)

【5月12日(日)】
↓日置川に架かる北野橋を渡ると、近露王子の入口です。12時25分到着。
熊野118・日置川に架かる北野橋.jpg熊野119・近露王子.jpg

↓境内で弁当を貰い、昼食です。今回も郷土の手作り弁当です。
熊野120・弁当.jpg
熊野121・弁当.jpg

◎近露王子跡(ちかつゆおうじ)
 永保元年(1081)10月、熊野に参詣した藤原為房は、川水を浴びた後、「近湯」の湯屋に宿泊しています。王子社の初見は、藤原宗忠の日記、天仁2年(1109)10月24日条で、宗忠は川で禊をした後、「近津湯王子」に奉幣しています。このように古くは「近湯」「近津湯」とありますが、承安4年(1174)に参詣した藤原経房の日記以降は、「近露」と書くようになります。建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻についで、近露でも歌会が行われています。定家は川を渡ってから近露王子に参拝していますので、上皇の御所は右岸にあったようです。承元4年(1210)修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記でも同様で、女院は4月29日に宿所に着いて「浴水・禊」をし、翌5月1日に王子社に参拝しています。このように近露では宿泊することが多く、川水を浴びた後、王子に参拝するのが通例でした。江戸時代には、若一王子権現社と呼ばれ、木像の神体が安置されていたようです。明治時代には王子神社となりましたが、末期には金比羅神社(現・近野神社)に合祀されました。なお跡地の碑の文字は、大本教主出口仁三郎の筆によるものです。(以上は説明板より)
※本殿についての記述サイト:http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=240426

↓石碑
熊野123・石碑.jpg
↑「近露王子之跡」と書かれた碑の文字は、記名はないですが、大本教主出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)の筆跡です。昭和8年(1933年)3月21日、王仁三郎がこの地に来た時、当時の近野村長横矢球男の依頼で筆をふるったのです。翌年1月それを彫りつけた王子碑が建立されました。その2年後の昭和10年12月大本教は、2回目のはげしい宗教弾圧をうけ、この碑も取り壊さねばならないことになりました。その時横矢は、「この文字は筆跡を自分が模写したものである」と主張し、保存していた王仁三郎の書を警察に提出しました。そして、碑面に彫られていた「王仁」の署名を削り、そこに「横矢球男謹書」と彫り改めて、王子碑の撤去をまぬがれたといいます。出口王仁三郎の筆跡の碑は全国に数多く建てられていましたが、他はことごとく破壊され、辛うじて残ったのはこの碑文だけとされています。(以上は説明板より)

↓スタンプ
熊野122・スタンプ.jpg

↓境内にある花仙の歌碑                                  ↓不詳
熊野124・花仙.jpg熊野125・歌碑.jpg

↓近露王子跡の向かい側にある「なかへち美術館」
熊野126・なかへち美術館.jpg熊野127・美術館.jpg
↑時間がなかったので立ち寄ることは出来ませんでした。

↓近露伝馬所跡
熊野129・伝馬所跡.jpg
↑この付近は、近露道中といわれ、熊野街道の宿場としてにぎわった所で、江戸時代には10軒近くの宿屋があり、伝馬所もここ(丹田家)に設けられていた。伝馬所は紀州藩が官吏の通行の便宜と公用の文書・荷物の逓送のために設置した役所で、ここ近露伝馬所には馬が12頭常備され、人足は地区民が交代で出て、西は逢坂峠・十丈峠を隔てた高原、東は比較的近い野中との連絡にあたった。
 歌人加納諸平が天保初年近露に泊まって「駅長竹の小筒を吹くからに山のかひこそ声あはせけれ」という和歌を詠んだが、夜中に逓送しなければならぬ至急便がきて、伝馬所の長が竹筒を吹いて人足を呼んでいるのである。人足を呼ぶ合図にははら貝を吹くこともあった。(以上、説明板より)


↓27番道標                           ↓月海山観音寺
熊野130・27番.jpg熊野131・月海山観音寺.jpg

↓野長瀬氏・横矢氏一族の墓所(和歌山県指定文化財)
熊野132・野長瀬一族の墓.jpg
↑野長瀬氏は大和十津川郷野長瀬組の出、生業を通じて畿内各地と交易し、13世紀初頭近露荘下司職となり当地と往来、河内の楠木氏らとも交流したと考えられる。元弘の変以降楠木正成を助け、また南都から吉野に向かった護良親王の危急を救ったことは「太平記」に見え、その功により、横矢姓を賜ると伝えられる。以後一族はそれぞれ野長瀬・横矢を称し、南朝・後南朝を助けたが利あらず近露に帰住、勢力を張った。
豊臣氏の紀州征伐に抗し一族離散、数十年後再び近露に戻り、家運の再興を図り現在に至っている。これらの墓碑は後南朝以後、紀州征討の頃までの一族のものと思われるが付近山中に長く埋もれていたのを1960年初頭発掘、ここに祀った。五輪54基、宝篋印塔6基。(以上は説明板より)

熊野134・史跡.jpg熊野133・横矢姫伝承.jpg

==========================

◎昨日の阪神タイガース

回数:123・456・789・・・・・・・計・・・・・・・(安打) 甲子園、 18:01、 46,876人
巨人:300・011・010・・・・・・・6・・・・・・・・(8)
阪神:020・001・000・・・・・・・3・・・・・・・・(9)

【本塁打】新井貴11号ソロ(6回、杉内)、阿部23号ソロ(5回、能見)、村田11号ソロ(8回、筒井)
【マルチ安打】新井良2、藤井2
【打点】西岡1、新井貴1、藤井1
【投手】
●能見     6回:6安打、4三振、4四球、5失点(15試合8勝4敗)
・安藤     1回:1安打、1三振、無四球、無失点
・筒井     1回:1安打、無三振、無四球、1失点
・松田     1回:無安打、1三振、無四球、無失点
○杉内5回3分の2:6安打、4三振、3四球、3失点(15試合8勝4敗)
S西村     1回:1安打、1三振、1四球、無失点(39試合2勝3敗23S)

※能見の一人相撲、自滅でしたね。1回3四球の満塁で村田に長打を浴びて試合が決まりました。
※阪神は勝負所で弱いですね。これで甲子園で巨人に3連敗です。意気地なしですね。
※これで、巨人の前半戦首位ターンが決まりました。
※鳥谷が3試合無安打と不調なのが、心配です。鳥谷は年間を通じで近年になく不調ですね。

#########################
nice!(10)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 10

コメント 6

たいちさん

★いっぷくさん、nice有難うございます。

★tochiさん、nice有難うございます。

★月夜のうずのしゅげさん、nice有難うございます。

★有城佳音さん、nice有難うございます。

★路渡カッパさん、nice有難うございます。


by たいちさん (2013-07-16 12:27) 

たいちさん

★世界のアイドルさん、nice有難うございます。

★sugoimonoさん、nice有難うございます。

★かずのこさん、nice有難うございます。
by たいちさん (2013-07-16 23:07) 

たいちさん

non_0101さん、nice有難うございます。
by たいちさん (2013-07-18 19:55) 

たいちさん

colletさん、nice有難うございます。
by たいちさん (2013-07-19 19:07) 

和歌山見所.NET

熊野古道の秋の紅葉の特集を始めました。皆さんが投稿していただける掲示板も設置してあります。もし、よろしければ、一度お越しください。和歌山見所.NET管理人より
by 和歌山見所.NET (2013-10-24 01:16) 

たいちさん

和歌山見所.NETさん、訪れいただきコメント有難うございます。
by たいちさん (2013-10-24 21:49) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0